聖人の祈り、届く場所

 扉をゆっくり押し開けて、中に足を踏み入れる。


 建物自体は決して大きくない。

 けれど、一歩入っただけで、なんとなく空気が変わったのが分かった。


 高い天井とアーチ状の梁。

 色とりどりのステンドグラスから差し込む光が、床に柔らかく映えている。


 祭壇の奥には大きな十字架が掲げられており、その両脇には──詳しくはわからないが、何かの像がいくつか静かに並んでいた。

 宗教的な意味があるんだろうけど、俺にはそこまでの知識はない。


 教会の中は静かだった。

 ほんのりとした香の匂いが漂っていて、歩くたびに木の床が軋む音がやけに響く。


 人は、それなりにいる。

 前方のベンチに座って祈っている人や、静かに読書をしている人。

 騒がしい様子は一切なく、どこか淡々と、それでいて穏やかな時間が流れていた。


 ──なんというか、異世界というほどではないけれど。


 やっぱり“特別な場所”だと、自然に感じてしまう。


「……うわぁ~っ☆ やっぱり神聖な感じがするねぇ~っ♪」


 天使がふよふよと浮かびながら、声を少しだけ抑えるようにして囁く。


 確かに、なんとなく“そういうもの”が漂っている気がする。

 言葉にしづらいが、空気の密度というか、場の圧のようなものが違う。


 しばらく無言で内部を見渡していたが、ふと現実に戻る。


「……で、礼拝って、どこでどうすればいいんだ?」


 俺は入口近くにいた年配の女性に、おそるおそる声をかける。


「すみません……初めてなんですけど、日曜礼拝って、どうすれば……?」


 女性は驚いたように目を丸くしたあと、すぐに柔らかな笑みを浮かべて頷いてくれた。


「もうすぐ始まりますよ。席は自由ですから、どこでもどうぞ。初めてなら、前の方より後ろの方が落ち着けるかもしれませんね」


「あ、ありがとうございます」


 俺は軽く頭を下げて、案内されたまま後方のベンチへと向かう。


 どうやら、丁度いいタイミングで来れたらしい。

 人々が少しずつ席に着き始めていて、礼拝が始まる空気が徐々に整いつつある。

 場の静けさが、少しずつ“祈りの時間”に切り替わっていくのが分かるようだった。


 内心ちょっとだけ緊張しながらも、俺は静かに席に腰を下ろす。



 まもなく、前方の祭壇近くから足音が響いた。


 年配の神父らしき男性がゆっくりと姿を現し、壇上に立つ。

 白い祭服を身にまとい、落ち着いた声で挨拶を始めると、教会の空気がさらに引き締まったように感じた。


 そのまま静かに礼拝が始まり、人々は頭を垂れて祈りに入っていく。


 俺もそれにならって、そっと目を閉じた。


 祈り方なんて、正直まったく知らない。

 だけど、気持ちを込めることなら、できる。


 ──主よ。

 色々と助けてもらってます。

 ありがとうございます。


 ──天使。

 いつもそばで守ってくれて、本当にありがとう。


 ──そして智天使たち。

 ……なんか変なことに付き合わせたり、雑用みたいな扱いして、本当にすみませんでした。


 胸の奥にある思いを、そのまま心の中で言葉にしていく。

 誰かに伝わっているかはわからない。

 けれど、不思議と“届いている気がする”のが、この空間の力なのかもしれない。


 しばらく祈っていると、不意に何か視界の端で“揺らめく”ような気配を感じた。


 ──ん?


 そっと目を開けて、隣を見やる。


 天使が、ほのかに光っていた。

 体を構成する環がゆっくりと回転しながら、淡い金色の輝きをまとっている。


「……おい、なんか光ってないか、お前」


 小声で囁くと、天使はぱっとこちらに身体を向けて、嬉しそうに言った。


「わぁ~っ☆ ごしゅじんさまの“祈り”、すっごく感じるよぉ~っ♪ これこれ~っ、こういうのが届くとねぇ~、力になるのぉ~っ☆」


 どうやら、本当に効果があったらしい。


「……これが、祈りの力……?」


 いまいち信じられなかったが、目の前で光ってるのがその証拠かもしれない。


 ふと見ると、天使がふよふよと浮かびながら、ステンドグラスの前へと移動していた。


 そして──


 環状の身体が静かに回転を始め、三対の翼が音もなくゆっくりと広がっていく。


 その瞬間、天井のステンドグラスを透過した光が差し込み、天使の背に柔らかく降り注いだ。

 淡い光と翼の輪郭が重なり合い、まるで天の祝福がその身に宿っているかのように見える。


 その光景は、まるで宗教画の中からそのまま抜け出してきたかのようだった。

 絵画の一部にでもなりそうなその構図に、思わず息を呑む。

 多少は見慣れたはずの天使の姿が、いつになく神々しく映って――正直、ちょっと圧倒された。


 神聖、という言葉が自然と脳裏に浮かぶ。


 もちろん、見た目はいつも通り“目玉だらけ”で圧が強いんだけど──


「……おい、なんか……すげぇ“天使感”出てるぞ」


 思わず呟いてしまった。


 いや、まあ。

 天使だけどさ。


 ……と、その時だった。


 壇上に立つ神父がふと、ステンドグラスの上──まさに天使が浮かんでいるあたりに目を向けた。


 一瞬だけ、じっと見つめるような仕草。


 だが、神父はすぐに首をほんの僅かに傾げて、何かを考えるような顔をした後、そっと視線を前へ戻した。


 どうやら、確信はなかったらしい。


 ──よかった。

 いや、ほんとによかった。


 見えてるとか言われたら、こっちがどう対応すればいいのか分からない。



 祈りが終わると、天使が静かにこちらへ戻ってきた。


「んふふ~っ☆ なんかすっごく調子いい感じ~っ♪ からだのなかが、ぽかぽかしてるの~っ☆」


 環を緩やかに回しながら、天使が満足そうに漂ってくる。


 ……いや、“からだのなか”って……そもそも中心、空洞じゃん。

 そんなツッコミを飲み込みつつ、俺は黙ってその様子を見守る。



 ──これが、“聖人の魂”を持つ者の祈り、なのか。


 心のどこかで、実感のような、あるいは畏れのようなものがじんわりと広がっていく。


 やがて礼拝が終わり、会衆の何人かが静かに立ち上がり、祭壇前へと向かう中──俺も席を立ち、壇上へと歩いていく。


 神父らしき男性が、落ち着いた様子で微笑みながら一礼してくれた。


「あの……初めてだったんですけど、なんというか……すごかったです」


 俺がそう言うと、神父は一瞬きょとんとした表情を浮かべたあと、ふと視線を細めて口を開いた。


「……あなたから、何かを感じます」


「え?」


 思わず問い返すと、神父は眉を寄せながら首をかしげた。


「……すみません。自分でも、なぜこんなことを口にしたのかわかりません。ただ……なんというか……不思議な感覚があるのです」


 その言葉に戸惑っていると、すぐ隣で天使がくるくると回転しながら呟いた。


「この人、すっごく敬虔みたいだからねぇ~っ☆ そういう“ちょっとした気配”とか、感じ取っちゃうのかも~っ♪」


 天使の軽い口ぶりを聞きながら、俺は内心でふむと頷いた。


 さっき視線を向けたのは、やっぱり“何か”を感じ取ったからだったのか


 ……やっぱすごいんだな、ちゃんと信仰を貫いてる人ってのは。


 すると天使が、神父のほうをちらっと見てから、ふわふわ浮きながら続ける。


「この人もけっこう魂キラキラしてるよぉ~っ☆とっても素晴らしい信者さんなの~っ♪」


 その何気ない言葉に、ふと胸の奥がざわつく。


 ──悪魔とかに、狙われたりしなきゃいいけど。


 天使がそばにいる俺みたいなケースとは違って、普通の人には何の備えもないわけで。

 こんな立派な人が巻き込まれたりしたら、それこそ申し訳が立たない。


 そんなことを思いながら、俺は再び小さく頭を下げて祭壇を後にした。


 教会の空気は、最後まで澄んでいて、柔らかく、暖かかった。


 ──こうして、俺の“初めての教会体験”は、静かに幕を閉じたのだった。

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