アスモデウス
頭が熱い。
心臓が痛い。
脈打つたび、身体の奥底から、何かが這い出してくる。
――ムラムラする。
理由は、わからない。
ただ、全身が煮え立つようで、皮膚の下に虫が蠢くようで、じっとしていられなかった。
「……ッ」
額に手を当てて、呼吸を整えようとする。
けれど、その瞬間だった。
「調子、悪そうね?」
声がした。
視線を上げる。
そこにいたのは、阿須望さんだった。
――いや、阿須望さん“のようなもの”だった。
彼女の頭からは、黒曜石のように艶やかな、ねじれた角が左右に一本ずつ、ゆるやかに伸びていた。
そして、腰には、先の尖った細長い尻尾が、鞭のようにゆらりと揺れていた。
「ずいぶん火照ってるみたいね?……どうして、かしら」
囁くように、笑いながら、阿須望さんは一歩近づく。
香水でもない、けれど妙に甘い匂いが、鼻をくすぐった。
理性が削れていく感覚。
何かに飲み込まれていくような――そんな――
阿須望さんが、ひとつ、距離を詰める。
その瞬間、頭の中に声が響いた。
『ふにゃ~~!? ごしゅじんさま、だめぇ~っ☆ それ以上さわられたら、魂、とろけちゃうよぉ~!? 淫気まみれのだましうち接近戦なんて、ルール違反だもんっ☆』
派手な効果音もない。
けれど、まるで空間そのものにノイズが走るように、目の前の景色が一瞬ブレた。
――そして、天使は降ってきた。
「というわけでっ、はーい☆ 割り込み天使ちゃ~んっ♪」
天から、あの天使が降りてくる。
空間の軌道を、まるで“再構築”するように、環状の身体をゆるやかに改定させながら――ふわりと、俺のすぐそばに浮かんだ。
三対の翼。
ぐるりと並ぶ瞳。
円環状の肉体が、宙に溶けるように揺らめいている。
異形。
――けれどアニメ声。
そのちぐはぐさは、相変わらずだった。
「こらぁ~っ! だーめーっ☆ 淫気のバフ盛るのはルール違反なんだよぉ~?」
その瞬間、胸の奥につかえていた“熱”が、ふっと消える。
まるで冷水をぶっかけられたような、理性が戻る感覚。
理性が戻る。
いや、強制的に戻された。
ただの視線だけで、ここまでかき乱されるとか、正気の沙汰じゃない。
というか、あの“角”とか“尻尾”とか……なんだったんだ、あれは。
「うぅ~、もぉっ! ごしゅじんさま、うっかりタッチされちゃってたら、魂いちご味にされちゃうとこだったんだよぉ~っ☆」
俺の目の前にふわりと浮かぶ天使。
瞳だらけのその異形が、くるくる回りながらくすぐったそうに声をあげる。
「っていうかさぁ~……あすのん、アスモデウスでしょ? わかりやす~~~いっ☆」
「……アスモデウス?」
俺が呟くと、天使はぐるんと回転して、満面の笑み(たぶん)を浮かべた。
「そーそーっ☆ 七つの大罪のひとつ、色欲の悪魔ちゃんだよぉ~♪」
天使のアニメ声が、やけに明るく響く。
その声を受けて、阿須望さんは――否、アスモデウスは、ほんの少しだけ肩をすくめた。
「ええ。そうよ」
あくまで淡々と。
けれど、その表情には「余計なこと言ってくれたわね」とでも言いたげな、若干うんざりした色が浮かんでいた。
「ほらねっ☆ やっぱあすのん=アスモデウスなんだよぉ~♪」
くるくると旋回しながら、天使は続ける。
「悪魔ってね、名前と存在ががっちゃんこに結びついてるのっ☆ だからあんまり派手に名前変えたりできないんだよぉ~? “阿須望(あすも)”って、ほとんど名前隠してないじゃんっ♪」
アスモデウスは、ため息をついた。
「……ほんっと、うるさいのよね。あなた、前から」
「えぇ~っ!? 天使ちゃんに向かってうるさいとかひどくない~!? ごしゅじんさまのために、がんばって降臨したのにぃ~っ☆」
「その“ごしゅじんさま”って呼び方も、毎回毎回……虫唾が走るわ」
淡々と毒づきながらも、どこか本気でうんざりしてるようだった。
その雰囲気に乗じて、俺はようやく、口を開いた。
「……あの、いったい、何をしようとしてたんですか」
なんとか声を絞り出す。
喉はまだ熱の名残でひりついていた。
アスモデウスは、ちらりと俺を見ると、ふ、と笑った。
「ほら。あなたの魂って、キラキラしてるじゃない?」
出た。
またそれだ。
俺のキラキラ魂。
天使も悪魔も口を揃えて言う、“俺の魂は特別”ってやつ。
「そのキラキラが、なんか良い感じってことですか……?」
「ええ。取り込めば、序列が一気に跳ね上がると思うの。たぶん、第一位にね」
「ひぃ~~んっ☆ やっぱりあすのん、狙ってたぁ~っ!? ごしゅじんさまのいちご味の魂、まるっと食べようとしてたぁ~!?」
「……いちご味じゃないし」
「味は知らないけど、光は綺麗よ。まるで……純粋な火種みたい。混じり気のない、根源的な光」
言いながら、アスモデウスは俺の胸元を、じっと見る。
その視線に、どくんと心臓が跳ねた。
『やーん☆ ごしゅじんさま、照れてるぅ~!?』
照れてない。
「でもでもっ☆ あすのん、なんでいきなりごしゅじんさまに攻撃しちゃったの~!? ふつーにアウトだよぉ~?」
アニメ声が、くるりと俺のまわりを旋回しながら飛んでいく。
アスモデウスは、特に悪びれた様子もなく肩をすくめた。
「本当はね、もう少し様子を見てから、いただこうと思ってたのよ」
「えぇぇぇぇぇ早急すぎ〜っ!? ごしゅじんさま、まだ攻略イベント始まったばっかなんだよぉ~っ☆」
ぐるぐる回りながら、天使が抗議の声を上げる。
アスモデウスは小さくため息をついた。
「……でも、あなたが降りてきた時点で、決めたのよ」
アスモデウスが静かに言う。
「降臨するってことは――そういうことでしょう?」
その瞳が、ちらりと天使をなぞる。
「あなたたち天使って、聖人の魂を見つけたら……すぐに保護しようとするじゃない」
淡々と、だが確信を持った口調だった。
「見つけ次第、囲い込んで。上に持ってく。そう……ずっと昔から、ずっとそうやってきた」
「そーだよぉ~っ☆ 天使ちゃんはね~、ごしゅじんさまの魂をちゃーんと安全保護するために降りてきたんだよっ♪」
「……聖人?」
俺の口から、疑問の声が漏れる。
すると天使は、くるりと宙でひと回転して、ぽよんと跳ねるように言った。
「うんうんっ☆ ごしゅじんさまの魂の前世はね~、かつて世界を救った伝説の聖人『サンクトゥス・イルミナ』なの! きらっ☆」
俺の思考が、強制的に止まった。
「さ、さんく……?」
「サンクトゥス・イルミナ~っ☆ 神さまがまだ地上をてくてく歩いてた頃~♪ 世界が洪水でびっちゃんびっちゃんになる前に祝福された、伝説の導き手ちゃんなのぉ~♪でもでも、公的な記録にはぜんぜん残ってないんだよっ☆ 本人が『歴史とか興味ないんで……』って感じで、自分から存在けしちゃったのっ! はにかみ屋さんのレジェンド~☆」
「なるほどね。確かに、それくらいじゃないと、ここまで眩しい魂にはならないわ」
アスモデウスは俺を見つめる。
その目に、じわりと熱を孕んだような光が宿る。
「ほんっと、もったいない。もうちょっとで味見できたのに……」
「やめてやめて~っ☆ ごしゅじんさま、いちご味でも、ホイップ味でもありませんっ!」
サンクトゥス・イルミナ。
世界を救った導き手。
神さまに祝福されて、伝説になった聖人。
それが俺の前世らしい。
……うん、なんかすごそうだな、とは思った。
思ったけど――ぶっちゃけ、全然ピンとこなかった。
今の俺は、ただのサラリーマンだ。
朝起きて、電車乗って、会社行って。
メールチェックして、会議して、たまに怒られて。
残業はできればしたくないし、週末はのんびりしたい。
そんな俺が、前世は聖人?
いくら何でも、飛躍しすぎじゃないか。
「……っていうかさ。なんでそんな大事な話、今まで黙ってたんだよ」
疑問をぶつけると、天使は空中でくるっと一回転して、これまたぽよんと跳ねるように言った。
「それはね~っ☆ 主が、まだ確信もてなかったからなんだよぉ~っ!」
「主って、神様のことだよな……?」
「そーそーっ☆ ごしゅじんさまの魂、ずーっとキラキラしてたから~♪ なーんかの聖人なのは間違いないって思ってたんだけどぉ……どの聖人ちゃんか、はっきりしなかったの~!」
「そんな適当な感じでいいのか……」
「いーのいーのっ☆ 今朝になって、主が『ビビッときた!』って言ってたから、満を持して~、てへっ☆ ごしゅじんさまの魂、確定演出入ったんだよぉ~!」
ビビッときたて。
そんなノリで確定されるのもどうかと思うが、もはや突っ込む気力も薄れてきた。
そういえば。
この天使――前に「主は怖いくらい静か」みたいなこと言ってなかったか?
その“主”が、ビビッときたって?
もしかして、その神様も、この天使と同じテンションだったらどうしよう。
価値観というか、世界観というか……いろいろ壊れていきそうだ。
そこでふと、アスモデウスの瞳が鋭さを増した。
「……それにしても」
ぼそりと漏らしながら、視線を天使へと向ける。
「この異空間――私の結界、普通は突破できないはずなんだけど? いったい、どうやって?」
その問いに、天使はくるんと宙返りしながら、満面の笑み(たぶん)で答えた。
「えへへ~っ☆ 実はねぇ~、ごしゅじんさまを守るために~、主さまから超特別バックアップ受けてるんだよぉ~っ♪ 降臨ブースト3倍盛りっ☆ めちゃくちゃチートなんだよぉ~!」
天使の身体形作る環が、いつもより勢いよくぐるんぐるんと回転しはじめた。
三対の翼も、ぱたぱたと小刻みに羽ばたいている。
「神の加護……ってことかしら」
アスモデウスは、静かにため息をついた。
「……もういいわ。今日は引く」
ぽつりと、冷めた声で言う。
「無駄に魔力を使いたくないし、あなたがそこまでガチガチに護られてるなら、今は分が悪いもの」
そのまま、くるりと踵を返す。
黒く艶やかな髪が揺れ、角と尻尾が淡く光を反射する。
「でも――覚えておいて。私が本気になれば、あなたなんて、いつでも堕とせる」
背を向けたまま、ふっと微笑んだ気配があった。
「それじゃ、またね。ごしゅじんさま、じゃなくて……サンクトゥス・イルミナ」
その名を、まるで呪文のように囁いて。
アスモデウスは、空気ごと溶けるようにして、ゆっくりとその場から姿を消した。
気づけば、さっきまで歪んでいた空間が、何事もなかったように元へ戻っている。
湿気を含んだ都会の空気。
ビルの合間を吹き抜ける風。
遠くで聞こえる車のクラクションと、人の話し声。
――いつもの、現実だ。
「ふひゅ~~~っ☆ ごしゅじんさま、なんとか無事だったねぇ~っ♪」
すぐ隣で、天使がそんなふうに言った。
「ねぇねぇ、ごしゅじんさまっ☆ これからもぜ~んぶ、わたしがまもるんだからっ♪ あんしんしててねっ!」
「…………」
俺は、両手で頭を抱えた。
「……え、明日、どんな顔して、阿須望さんと会えばいいんだよ……」
天使の「えへへ~っ☆」という能天気な笑い声が響く中、俺はぐらぐら揺れる現実感を、ひたすら両手で抑え込もうとするのだった。
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