悪魔の序列
帰り道、俺はまだ警戒していた。
またどこかで、アスモデウスが襲ってくるんじゃないかって。
でも――
駅まで歩いて、電車に乗って、家の最寄りまで帰ってきても、
何も起きなかった。
「……ふぅ」
玄関に鍵を差し込みながら、思わず息が漏れる。
全身から、力が抜けた。
……なんか、疲れたな。
靴を脱ぎ捨て、鞄もそこらに放り出す。
スーツのままソファに倒れ込みそうになるのを、ギリギリで堪えた。
「……シャワーだけ、浴びるか」
体がべたつく感じが気持ち悪い。
重い腰を上げて、バスルームへ向かう。
さっとシャワーを浴びて、簡単に汗と埃を流す。
温かい湯が肩を打つたびに、少しずつ、神経が緩んでいくのを感じた。
着替えもそこそこに、ベッドに倒れ込む。
ベッドに沈み込んだ、その時だった。
壁――いや、空間そのものが、ぐにゃりと歪んだ。
「――ッ」
思わず、背筋に冷たいものが走る。
壁の中から、ふわりと何かがすり抜けてきた。
ぐるぐると回る環、無数の目玉、三対の翼。
……見慣れた異形だった。
いや、まだ慣れた訳ではないけどさ。
「たっだいま~っ☆ ごしゅじんさまぁっ♪」
天使が、まるで普通の帰宅みたいに、三対の翼をぱたぱたとはためかせながら、にこにこと(たぶん)俺に挨拶してきた。
見た目はホラーなのに、ノリだけは家族。
俺はベッドの上で硬直しながら、しばらく口が動かなかった。
「……お、お前……途中、どこ行ってたんだ?」
ようやく絞り出すように言うと、天使はくるんと一回転して答える。
「ん~? ごしゅじんさまが帰るまでにぃ~、まわりの空間チェックしてたんだよぉ~っ☆」
「空間……チェック?」
「うんうんっ♪ あすのんがまたおしかけてこないように~、ごしゅじんさまのまわりをパトロールしてたんだよぉ~っ☆」
くるくる回りながら、天使は誇らしげ(たぶん)に言った。
……いや、ありがたいっちゃありがたいけど。
でも、もうちょっと普通に帰ってきてくれ。
天使がふわふわと漂うのを眺めながら、ふと、あることを思い出した。
――そういえば。
阿須望さん、いや、“アスモデウス”が言ってた。
『あなたたち天使って、聖人の魂を見つけたら……すぐに保護しようとするじゃない』
『見つけ次第、囲い込んで。上に持ってく。そう……ずっと昔から、ずっとそうやってきた』
じゃあ――
俺も、どこかに連れていかれるのか?
ぞわぞわと背筋を這い上がる不安を抑えきれず、俺は思い切って聞いた。
「……お前、もしかして、俺をどっか連れていこうとしてる……?」
すると天使は、くるんとひと回りしてから、満面の(たぶん)笑みで答えた。
「えへへ~っ☆ むかしはねぇ~、そういうこともしてたんだけどぉ~っ♪」
――昔は、してた。
さらっと恐ろしいことを言うな。
「でもでもぉ~、いまはぜ~んぜんっ☆ 聖人なんて、ほとんどいないしぃ~っ! だから連れてったりとか、しないよぉ~っ♪」
天使は、ぐるぐる回りながら言葉を続けた。
「いまはね~っ、ごしゅじんさまみたいな“すごい魂”を見つけたらぁ~、そっと応援するだけっ☆ いわゆる~……推し活ってやつだよぉ~っ♪」
「……推し活?」
思わず、変な声が出た。
推し活?
今、天界ってそんなノリなの?
「……いや、待て」
思わず、手を上げて止める。
俺の常識が、全力でツッコミを入れてきた。
「天界って、もっと……厳かで、神聖で、なんか、そういう場所じゃないのか……?」
「いいのいいのぉ~っ☆」
天使はぐるぐる回りながら、全方位から俺にアピールしてくる。
「ぜ~んぶ主さまが決めることだからぁ~っ☆ わたしたちはただ、好きな魂を応援して、見守ってるだけぇ~っ♪」
いいのか、それで。
すごくダメな気がするけど。
「でもでもぉ~、悪魔たちはね~っ、魂を取り込んで自分の力にしようとするからぁ~……」
天使は、ふわりと一回転して、翼をぱたぱたさせた。
「だから、ごしゅじんさまは、ちゃんとまもらなきゃなのっ☆」
言葉だけは、やたら真剣だった。
――悪魔に魂を奪われないように、守る。
つまり、そういう立場、らしい。
……いや、立場とか以前に。
その見た目、まずなんとかしてほしいんだけど。
改めて、目の前の“天使”を見た。
ぐるぐる回る環。
その環の縁に、無数の目玉。
ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、俺を見てくる。
しかも、ただ回ってるんじゃない。
視線を、送ってきている。
全方向から、同時に。
ぞわっ……!
背中を冷たいものが這い上がった。
ただ、三対の翼だけは――かろうじて“天使っぽい”。
ぱたぱたと羽ばたく様子は、どこか絵画で見た天使を思わせなくもない。
でも。
それ以外の要素が、圧倒的にホラーすぎた。
魂を守る? 推し活? 知らん。
まず、せめてその目玉を、何とかしてくれ。
……そう思いながら、俺はそっと視線をそらした。
そして、ふと、思い出す。
――そういえば。
阿須望さん……いや、“アスモデウス”が、言ってたな。
確か、序列がなんやらみたいな。
地獄の序列。
アスモデウスが、俺の魂を取り込めば一位になれる、って。
……そういえば、今は何位なんだ?
ふと疑問が浮かんで、俺はベッドの上で体を起こした。
「なぁ、悪魔の序列って、今どうなってるんだ?」
声をかけると、天使は嬉しそうにふわりと一回転した。
「ん~っ☆ いまねぇ~、アスモデウスちゃんは5位だよぉ~っ♪」
「五位……」
思ってたより高いな、と思っていたら、天使はさらに続けた。
「ちなみにぃ~っ☆ いちばん上はね~っ、もちろんルシファーさまぁ~っ♪」
「……ルシファー?」
そこは聞いたことがあった。
有名な堕天使。
地獄の王、だったか。
「にばんめは、べるぜぶぶちゃ~んっ☆ みつめは、べるふぇごーるちゃ~んっ♪」
「ベルゼブブ……ベルフェゴール……」
なんか、どっかで聞いたことある。
ゲームとか、マンガとか。
でも、こうも軽く“ちゃん付け”で呼ばれると、やたら現実味が薄れる。
「よんばんめが、さたんちゃ~んっ☆ で、五ばんめがあすのんだよぉ~っ♪」
「サタン……って、なんか一番強そうなイメージあったけど」
「いまはちょっと、いろいろあってね~っ☆」
天使はふよふよと回りながら、ひらひらと羽ばたいた。
「だからぁ~、あすのんがごしゅじんさまを取り込めばぁ~、一気にナンバーワンになれるんだよぉ~っ♪」
「……」
改めて、めちゃくちゃ狙われてる現実を突きつけられた。
「……それで、そんな五位のやつが、わざわざ俺を狙う理由ってなんなんだ?」
天使は、ふわふわと宙を漂いながら、楽しそうに答えた。
「ん~っ☆ それはねぇ~っ♪」
三対の翼をぱたぱたさせながら、天使は言った。
「地獄ってぇ~、弱い子はあっという間に食われちゃう世界だからぁ~っ♪ 序列を上げないと、すぐに消されちゃうんだよぉ~っ☆」
「……消される?」
「そだよぉ~っ☆ 下の方にいる悪魔ちゃんたちはね~、上に上がるために、他の子をやっつけたり、取り込んだり、するのぉ~っ♪ だから~……」
天使は、にこにこ(たぶん)しながら言った。
「アスモデウスちゃんも、生き延びるためにがんばってるんだよぉ~っ☆」
生き延びるため。
それは――
すごく、シンプルな理由だった。
ただ、それを達成するために、俺の魂を奪おうとしてたわけだが。
複雑な気持ちになりながら、俺は無言で天井を見上げた。
――けど。
ふと、また疑問が浮かぶ。
「……でもさ」
俺は視線を横にそらしながら、ぽつりとこぼした。
「アスモデウスって、五位なんだろ? そんなに弱いわけでもなさそうだし、別に無理して上を目指さなくてもいいんじゃないのか?」
天使は、くるんと一回転してから、ふわりと答えた。
「ん~っ☆ でもでもぉ~っ、地獄ってぇ~……」
ぱたぱたと翼をはためかせながら、天使は言った。
「つよい子が上に立つのが、あたりまえ~っ☆ でもぉ~、うわべだけ仲良しごっこしてぇ~、チャンスが来たら後ろからぶすぅ~って刺すのも、ふつうだよぉ~っ♪」
「……」
言葉を失う俺をよそに、天使は無邪気に続けた。
「さっきまで一緒にパフェ食べてた子がね~っ、次の瞬間には、ぱくって食べられたりするのぉ~っ☆」
「……パフェの例え、軽すぎるだろ……」
俺が小声で突っ込むと、天使はふわりと浮かびながら締めくくった。
「だからぁ~、五位でも、気を抜いたらすぐおわりっ☆ あすのんも、ず~っと気ぃ張って生きてるんだよぉ~っ♪」
「……なるほどな」
納得した、とは言い難いが。
なんとなく、地獄の空気感だけは伝わってきた。
「でも……それなら余計に、上に行こうとするのって危なくないか?」
思わず、また口を開く。
「上に行けば行くほど、目立つだろ。狙われやすくなるんじゃないのか?」
俺の疑問に、天使はくるんと回りながら答えた。
「ううんっ☆ ごしゅじんさま、いいところに気づいたねぇ~っ♪」
ぱたぱたと三対の翼を羽ばたかせながら、天使はふわりと浮かぶ。
「でもでもぉ~、四位以上は、べつっ☆」
「……別?」
「そぉ~っ☆ 地獄ではねぇ~、上位四柱ってよばれてるのぉ~っ♪」
天使は片方の翼たちで器用に指を立てるような仕草をしながら続けた。
「四位以上は、べつ格っ☆ ルールもちがうしぃ~、ほかの悪魔ちゃんたちも、めったに手ぇ出せないんだよぉ~っ♪」
「……それって」
つまり。
四位にまで上がれば、狙われる側じゃなくなる。
安全圏に入れるってことか。
「そうそうっ☆ だからぁ~、あすのんも必死なんだよぉ~っ♪」
天使は、ふわふわと笑いながら――
無数の目で、こちらを見つめてきた。
俺はベッドに背中を預けたまま、静かにため息を吐いた。
――地獄って、本当に地獄なんだな。
さっきまで「狙われる側」として怯えていたはずなのに、今は妙な気持ちだった。
生きるために必死で、気を抜けば仲間にすら食われる世界。
そんなところで、あの人は――阿須望さんは、ずっと戦ってきたのか。
……気づけば、少しだけ、同情していた。
もちろん、俺の魂を奪おうとしている事実は消えないけど。
それでも――
「……大変なんだな」
思わず、そんな独り言が漏れた。
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