襲来

 月曜日の朝。

 俺は、いつもより数秒遅れて、目を覚ました。


 体が重い。

 疲れが取れていない――というより、何かに心を削られ続けていた感じだ。

 土日、特に何をしたわけでもない。

 ただ、ほとんど自宅の部屋にいただけだ。

 なのに。


 なぜか、ものすごく疲れている。


 原因は明白だった。

 視界の端で、今もぐるぐると環が回っている。

 その表面にある沢山の目がこちらを見つめていた。


「おはよぉ~♪ ごしゅじんさまぁ~☆ 今日もいっぱい、がんばって生きてねぇ~!」


 天井のあたりでふよふよ浮かびながら、アニメのキャラクターのような声が響く。

 その声が、異様に高く、無垢で、明るく、そして――容赦がなかった。


 土日、ほとんどこの天使と同じ空間にいた。

 寝ても覚めても、目が合えば喋りかけてくるし、視界に入れば翼が羽ばたいたり環が回ったりする。

 ずっとずっと、視神経と脳髄をこすられているような感覚だった。


 天使は、俺の部屋に住みついている。

 しかも「天の命により、ここで観察を行うことになったのだ~☆」とか言っていた。

 契約書もない。

 異議申し立てもできない。

 実家に帰るか、引っ越すか?

 ……そんなことをしたら、“どこにでもついてくる”に決まってる。


 今朝も、目覚めると同時に目が合った。

 沢山の瞳が一斉にこちらに向けられるのが、地味に精神にくる。

 しかもいつの間にかごしゅじんさま呼ばわりだし。

 そして、心の隙を縫うように、萌えボイスが飛んできた。


「いってらっしゃぁい☆ しゅっきんっ! しゅっきんっ!」


 気力を振り絞ってスーツに袖を通し、朝食もとらずに玄関を開ける。

 その背中に、天使の声が延々とついてくる。


「ごしゅじんさまぁ~? おひるやすみになったら、またおはなししよぉねぇ~? わすれちゃ、やだよぉ~?」


 ……忘れられるなら、どれだけ楽だろうか。


 ドアを閉め、ようやく音が途切れる。

 静寂が、少しだけ俺を癒した。


 しかし、足取りは重い。

 体ではなく、心が重い。

 普通の月曜より、三倍くらいの精神力を使って歩いている気がした。



 駅までの道を、いつものように早足で歩く。

 寝不足気味の体に、朝の空気が冷たくしみる。

 月曜の朝にしては、やけに静かだった。

 ……いや、静かじゃない。


 視界の端で、ふよふよと浮かぶ環が回っていた。

 まさか、と思って振り返る。

 誰もいない。

 けれど――上空。

 電線のあたりに、いつもの天使が浮かんでいた。


 え、なんでいるの?


 いや、出かける時に「いってらっしゃぁい☆」って言ってたじゃん。

 そこまでにしとけよ。

 なんで来るんだよ。

 まるで、家で別れたあとに「やっぱもうちょっと一緒にいたくなっちゃったぁ~☆」みたいなテンションでついてきてる。

 ……いや、そのテンションで来るな。


「おさんぽぉ~♪ まいにちしんぱんの下見ぃ~♪」


 歌ってる。

 やめて。

 こっちは出勤なんだ。

 会社なんだ。

 これ以上、常識を壊さないでほしい。


 そして誰も、俺の横にいる異形の存在には気づいていない。


「らっしゅあわ~♪ ひとのかお、たくさんだねぇ~? ぜーんぶ、神さまがつくったんだよぉ~? えらいねぇ~♪」


 そんな声が、鼓膜にやさしく刺さる。


 天使は通勤客でごった返すホームの上空、おおよそ二メートルあたりを、のんびりとホバリングしている。

 相変わらず環状で、うっすら光を放っていた。

 環がくるくると回り、たまにピタッと止まっては、誰かの顔を凝視する。


 なぜか、誰も反応しない。

 どれだけ派手でも、異様でも、まるで見えていないかのように、周囲は無関心だった。


「ごしゅじんさまぁ~? えきのホームって、なんかせまいよねぇ~? おっこちちゃわないように、気をつけてねぇ~?」


 ……心配するふりして、俺の精神を追い詰めにきてるだろ、これ。


 やがて電車が来た。

 数秒の停車時間で、ぎゅうぎゅう詰めの車両へと押し込まれる。

 サラリーマンたちの肩と肩の間に身をねじ込み、何とか位置を確保する。


「うわぁ~☆ これが、まんいんでんしゃぁ~? ぎゅうぎゅうぅ~♪ ごしゅじんさまぁ、ぺったんこになっちゃうぅ~☆」


 なぜかこいつ、物理的には電車の外に浮いているくせに、声だけは車内のど真ん中に響いている。

 車両内は無音だったが、俺の頭の中だけが、地獄のようにうるさかった。


 目の多さで気づかなかったが、この天使、口も三つくらいあるのかもしれない。

 音源が一箇所じゃない。

 ぐるっと囲むように声が聞こえる。


 俺はそっと目を閉じた。


 眠るには早い。

 死ぬには遅い。

 ただ、電車の揺れに身を任せて、少しでも現実から逃げたかった。


 

 会社に着くころには、精神の大半を置いてきたような気分だった。


 オフィスの自動ドアが開く。

 白い照明と冷えた空気が、日常の始まりを告げる。


 天使の姿は、もう見えなかった。

 いつの間にかいなくなっていたのか、それとも――見えないだけなのか。

 気配が、まだどこかにまとわりついている気がした。


 靴音を抑えながらデスクに向かう。

 誰もこちらを気にしていない。

 朝の空気はいつも通り、淡々としていた。


「おはようございます」


 声をかけてきたのは、同僚の阿須望さんだった。


 長い黒髪と、無表情気味の整った顔。

 職場では無駄口をたたかず、仕事は完璧。

 感情が読めない、ちょっと怖いタイプの人間。


 ただ――その目が、ほんの一瞬だけ、俺の肩のあたりを見た。


 視線はすぐに戻った。

 だが、確かに、ほんの一瞬だけ何かを“見ていた”。

 気のせい、とは思えなかった。


「……おはようございます」


 俺も返す。

 できるだけ平静を装って。


 阿須望さんはそれ以上、何も言わず自席に戻った。


 ……やっぱり、見えてるんじゃないか?


 でも、どうしてそんな素振りだけで、それ以上追及しないんだ?

 そもそも、あれが見えるなら――彼女は一体、何者なんだ?

 天使は悪魔とか言っていたけれど……


『あっ☆ あすのんだぁ~♪』


 唐突に、頭の中で天使の声が響いた。


 やめろ。

 職場の人を勝手にあだ名で呼ぶな。

 しかも、なんで「だぁ~♪」ってつけた。


『やっぱりあのこ、あくまだねぇ~☆ うんうん、まちがいなぁいっ♪』


 テンションだけは一級の確信犯。


 俺はそっとデスクに座り、PCの電源を入れた。

 モニターに映るログイン画面の青白さが、なんとなく現実に引き戻してくれる気がした。


 ――けれど、背後で環が回っている気配がした。



─────



 どうにか定時まで耐え抜いた。


 途中、仕事に集中できなかったのは言うまでもない。

 画面のフォルダを開くたび、エクセルの罫線を引くたび、ふとしたタイミングで、阿須望さんの姿が目に入る。

 それだけで、背筋にじわりと冷たいものが這った。


 ――本当に、悪魔なのか?


 確かに完璧すぎる。

 誰とも群れず、感情を表に出さず、淡々と成果を出す。

 人間らしい隙が、どこにもない。

 でも、それが悪魔の証拠になるのか? ただのデキる人なんじゃないのか?


 疑念と否定と諦めの間を、頭の中でぐるぐると回っていた。

 結局、昼も夜も何も言えなかった。


 気づけば、退勤時間だった。



 ビルを出て、駅へと向かう。

 夕暮れの光は柔らかいはずなのに、どこか色彩が鈍く感じられた。


 風が吹いていた。

 ビル風にしては生ぬるく、肌を撫でるその感触が、なぜかやけに気持ち悪かった。


 そして歩いていると、急に――妙な感覚に襲われた。


 体の奥から、じわじわと熱が湧いてくる。


 それは、腹の底からせり上がってくるような、どうしようもなくいやらしい、衝動。


 理性をひっかくような、妙に甘ったるい欲情だった。


 こんな時に?

 いや、そもそも理由がない。

 何が引き金になった?

 頭では「おかしい」と理解しているのに、体が、勝手に反応している。


 誰かの視線。

 どこかから流れ込んできた、なにか。


『わあ~☆ ごしゅじんさまぁ~? いま、なんかヘンな感じしてるぅ~?』


 耳元で、天使の声がした。


 振り返っても、そこには誰もいない。


『あのこ、ちょっぴりだけ、ちょっぴりだけ~……って、さわってきたんだねぇ~♪』


 ――あの子、阿須望さんか。


 まさか。


 言葉も交わしてない。

 接触もない。


 それなのに、俺の中に、明らかに異物が流れ込んできている。


 理性がきしむ。奥歯が軋む。

 止められない。

 このままじゃ――


 周囲の音が、すうっと遠ざかった。


 駅前の喧騒が、ゆっくりとフェードアウトしていく。


 目の前の風景はそのままだ。

 夕暮れの街並み、交差点、信号、ビル群――全部そのまま。


 けれど――


 誰も、いない。


 人が消えていた。


 視界にいたはずの人波が、いつのまにか、一人残らず消えていた。


 時計の秒針が、動いていない。


『わぁ~♪ 異空間へ、よーこそぉ~☆』


 頭の中に聞こえる声で、天使が無邪気にそう宣言した。


『ごしゅじんさまが、あすのんの“干渉”に反応しちゃったからねぇ~♪ おまけに、この空間、あのこがつくったみたいだよぉ~?』


 俺は、意味もわからず、その場に立ち尽くしていた。


 心臓の鼓動が速い。

 体が熱い。

 けれど、それ以上に――


 寒気がした。


 “何か”が、来る。

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