竜鳴き山-中腹

 火から離れていた狼が、青年に近づいて伏せる。長年付き添ってきた相棒。ユールクはその仕草で、そう直感した。


「あの、戦士様。その角のある狼の話を、ぼくは聞いたことがあります」


 何かを言わなければならない。ユールクはまとまらない頭を振り絞って、一つの話題を口にした。


「彼女は火々獣ひかげものではありませんか」

「知っているのか」


 初めて、青年は眉を動かした。ユールクは、さらさらとした金髪が揺れるほど、しきりに頷いた。


「遠い西に、伝説の地があると聞きました。名だたる竜さえ近付かぬ森の奥に、火を抱く魔狼が住むと。かつては竜とこの世の炎を二分し、敗北はすれど未だ竜の天敵として名を残す! それの名が火々獣だって!」


 少年は身を乗り出して、頬に受ける焚き火の熱のままに話した。全て口にしてから、はっとして、もじもじと身を縮こまらせた。


「す、すみません。負けた話なんて、ご気分も良くないですよね」

「構わない」


 青年はちらと狼を見た。狼は頭をもたげて赤い瞳で二人の人間を見たが、すぐに興味がなさそうにそっぽを向いて伏せ直した。すると、青年もそうかとばかりに視線を外して、自分の荷物を手元へ引き寄せた。そうして、矢筒の中から、一本の矢を取り出してみせた。


「お前は、これを知っているか」


 コップと一緒に干し肉を置いて、ユールクは矢を受け取った。蝋が塗られた矢の軸はまっすぐで、三枚の矢羽根から銀の矢筈に至るまで、全てが整っている。未熟な彼をもってしても、ただの荒くれが使う粗末な矢ではないと分かった。


 だが、ユールクは青年が問うているのが、矢の材質だとか、どういう手腕の矢師が作ったのかだとか、そうしたことではないような気がした。

 最終的に彼が着目したのは、やじりだった。


「少なくとも、獣に使う鏃ではありません。獣を殺すのに、こんな鋭く長い鏃を用いる必要はありませんから」


 ユールクは矢を返しながら、己の知ることを、ただ口にした。

 鏃は、彼が今までに見たどの鏃より鋭利だった。金属質で、炎を照り返して白く輝いている。ただの獣の肉や皮を相手にするは無駄なほどであった。


 だからこそ、彼は察したのである。これはもっと頑強な生命を殺すための矢であると。

 竜鳴き山でこの矢を使うべき相手は、ユールクの中でたった一つしか思い浮かばなかった。彼の目は、勝手に大きく見開かれていった。


「お前は運が良い」


 青年は表情を変えずに淡々と告げ、白い息を吐いた。


「おれは黒衣を殺しにきた」


 村を滅ぼされてから初めて、ユールクは頭上に光が降りてきたような心地がした。


「もう寝ろ。明日も早い」

「は、はい!」


 赤紫の瞳を伏せて、青年が獣にもたれて眠り始めた後も、ユールクは心臓の高鳴りを隠せないまま、その異邦の衣に包まれた身体を見つめていた。コップと一緒に脇に置いた干し肉の存在を思い出したのは、ずっと後のことだった。





 翌朝、名前さえ知らぬ青年を追いかけて、ユールクは山を進んでいた。空は昨日よりは遥かに明るく、風はしんと止んでいた。


 青年は起きるなり、火々獣に何かを伝えて彼女をどこかへと送り出した。ここにいるのはユールクと青年だけである。彼は相棒になりかわったような心地で、青年の後ろを歩いていた。


 自分は、ただの狩人の時には想像も付かなかった竜殺しの冒険に出ている。それを思えば、ユールクはどこへでも飲まず食わずで走り抜けられる気がしていた。


「戦士様、彼女に何を伝えたのですか?」

「偵察だ」

「黒衣の、ですか?」

「違う。良からぬ竜は災いを呼ぶ。敵は竜そのものだけではない」


 青年は立ち止まり、木々を見回した。ユールクも喉を鳴らして気配を察知してみたが、獣一匹いる気配はない。


「もっとも警戒すべきは、『おそれ』だ」


 静かな声の意味するところを、ユールクは理解できなかった。彼は首を横に振って、青年の隣まで飛び出した。


「これから黒衣を殺すんです。おそれなど捨てました」


 ユールクの返事に、青年は応えなかった。代わりに、彼は飛び出そうとしたユールクを手で遮った。


 何事かと瞬きした少年の目にも、いよいよ異変は察知できた。二人の前に現れたのは、他でもない人間だった。男が四人。それぞれの姿は食い違っていたが、皆、どこかに黒い鱗を身につけていた。


「見ない顔だな。おい、ここを黒衣様のお山と知って来ているんだろうな」


 首領格と思しき男が、青年とユールクに吼える。


(あの竜に様付けなんて!)


 ユールクは黒衣に虐げられている人間が『様』をつけて呼ぶなど信じられず、目を見開いた。男はぼろの剣を引き抜いて、その切っ先を青年へと向ける。


「有り金と食い物、あとは、その業物を置いて行きな。意味は分かるだろ?」


 男が見ているのは、青年の携えた剣らしかった。ユールクは二者の間で視線をさまよわせたが、青年は微動だにしなかった。この間にも、他の男たちは、青年に弓を引き始めている。


「通行料か」


 青年は淡々と、そう答えた。男が「そうだ」と答え、一歩踏み出す。


「黒衣様は財宝をお求めだ。頭を垂れて『上納』すれば、我らをお許しになるが、そうでないなら殺される」

「だ、だからって、同じ人間を襲うんですか! 黒衣に頭を下げて、こんな山賊まがいのことなんか!」


 思わず、ユールクは声を上げた。男の眉がぴくりと動く。


「ひっ」

「口を慎めよ、小僧」


 ユールクの足元に、矢が撃ち込まれる。思わず、彼は後ろに飛び退り損ねて尻もちをついた。


「何も知らないガキの癖に!」

「黒衣様に聞こえたら俺たちまで殺されるんだぞ!」


 彼は、男たちが僅かに視線をさまよわせたのを見た。『おそれ』だ。黒衣の機嫌を損ねるかもしれないという恐れが、彼らの眼球にへばりついていた。


 ――もっとも警戒すべきは、『おそれ』だ。


 今しがたの青年の言葉が、ユールクの中で反響した。彼らは、すっかり心を折られているのだと。


「共に黒衣を討つ道はないのか」


 にわかに怯える男たちに言葉を返せるのは、青年だけだった。彼は弓にも剣にも手を掛けぬまま、そっと、男たちへ問いかけた。ユールクの前で、青年はまっすぐ男たちを見つめている。


「そうですよ! 戦士様が一緒に戦ってくれるって!」


 ユールクもまた、男たちが我に返って、奮い立ってくれることを強く望んだ。身体に飾る鱗なんか捨ててしまって、善性と勇気を振り絞ってくれると信じた。


「そう言って何人も死んできたんだぞ!」

「裏切って負けたら、俺たちはどうなる!」

「黒衣様についたんだ。勝っても受け入れられる場所なんて……」

「決まりだな。逆賊だ! 殺せ!」


 だが、それは叶わなかった。男の咆哮が、ユールクの鼓膜をびりびりと震わせた。男たちは矢をつがえ、あるいは仕事道具であっただろう斧を振り上げ、青年に襲いかかった。


「……分かった」


 青年が発したのは、ただそれだけだった。多勢に無勢だ。この美しいものが殺されてしまう。ユールクは怖くなって、目を覆った。

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