竜鳴き山にて
mahipipa
序章 竜鳴き山にて
その日の竜鳴き山は晴れてこそいたが、太陽の熱を奪う荒涼とした風が吹いていた。
いま、山の中腹にある森を、一人の青年と一頭の獣、そして一人の少年が歩いている。彼らは山の頂上を目指していた。
「樹だけ見れば、近くの森と何も変わらないのに」
青年と獣の後ろを歩く少年の名はユールクといった。歳は十五の狩人である。襟足の伸びた金の髪を風になびかせ、かき集めた道具と弓を背負って歩いている。丸い大きな緑の瞳に、ざわめく木の葉が映り込んでいる。
(風が違う。ひとが立ち入っていいかたちをしていない)
少年は、竜鳴き山に生まれて初めて踏み込んでいる。全てのものが己を威嚇するような空気に、彼は身震いをした。
「このあたりで休む」
湧き水近くまで歩いたあたりで、ふと、寡黙な青年が言葉を口にした。ユールクは、はっと顔を上げた。
「わ、分かりました。準備しましょう」
ユールクは手際よく野営の準備を始めた。彼は枝を集め始めた青年の方をちょくちょく見て、そのたたずまいを観察していた。
精悍で美しい青年だった。このあたりでは珍しい黒髪を、肩のあたりで乱雑に切っている。文様が縫われた異邦の衣の間に、薄手の鎖かたびらを身に纏っている。だが、それ以上に目を引くのは、その瞳の色だった。
――良いか、ユールク。赤紫の瞳は戦狂い、魔性の証だ。近付いてはならんぞ。
青年の切れ長の眼の中に収まった、赤紫に輝く目。ユールクの亡き祖父は、幼い彼にそれが魔性の証だと言い聞かせてきたけれど、彼はそれを綺麗だと思ってしまった。
しかし、そんな異国の旅人をもってしても、隣に居る獣の前では霞んでしまった。
青年が連れていたのは馬でも羊でもなく、巨大な雌狼であった。黒々と輝く体毛は、足元だけ炎のように赤い。狼でありながら、山羊の如きねじれた角を戴いている。
このおそろしい魔狼に鞍もつけずにまたがり、青年はユールクの村を通りがかったのである。出会いは偶然だった。
ユールクは彼と共に手早く落ち葉や枝をかき集め、火をつけた。燃え行く草木は、最後に見たふるさとの色を孕んでいた。
「本当に、いいところだったんです。竜鳴き山に『黒衣』が来るまでは」
双眸に炎を抱き、ユールクは寡黙な青年にぽつりぽつりと話し始めた。
昨日の今頃、ユールクは狩りの成果もなく帰り道を歩いていた。このところ、『収穫なし』は特によくあることだった。
竜鳴き山の主が代わってからというもの、近隣の森や山の幸は日に日に少なくなっていた。
竜とは、およそ人智の及ばぬ強大な生命である。爪は岩を容易く引き裂き、炎の吐息は命を焼き尽くす。その中でも悪名高いものが、今、山を支配していた。
――おお、かわいそうに、かわいそうに。食ろうてやろうな。
彼は狡猾で、ひどく意地の悪い竜だった。まず、人々は山の向こうへ行けなくなった。黒衣が頂上を根城に陣取ったからだ。山の向こうとの交流は途絶え、人々は飢え始めた。
次に、黒衣は人を殺し始めた。食うためではない。遊ぶためである。一つ、また一つと村が戯れに滅ぼされる噂が流れる度、村の人々は絶望に顔を覆った。
だから、ユールクは燃える村を見た時、何より先に、ついに自分たちの順番が来たのだと思ってしまった。
早くに父母を亡くし、祖父が老いて亡くなった後も、ユールクはひとりぼっちではなかった。気になる幼馴染みだっていた。くだらない遊びを教える大人がいて、日によっては、口が達者な老人たちにやりこめられたりもした。
それがただ一日、狩りに出かけている間に燃えさしの炭同然になったのだ。遠目に燃える村を見た時、ユールクは生まれて初めて、ひとりになった。
黒衣が飽きて帰った頃、ユールクはやっと村に到着した。生存者は誰もいなかった。
それから呆然と立ち尽くしていたところ、通りすがった青年に拾われたのだ。今の今まで、ユールクは名を伝える以外、まともに口を利けなかった。
「正直、まだ……実感が湧かないのだと思います。ぼくの中に燃えるのは、悲しみではありません。黒衣への怒りだけなのです」
ユールクは青年へそう告げて、白い手を膝の上で握った。火に炙られ始めた薬缶の中から、ふつふつと水の煮える音が聞こえ始める。彼は青年から干し肉を渡されたが、受け取るだけで口に運べずにいる。
「ぼくは狩人です。生命をいただくからこそ、巡る命に感謝せよと、祖父や父母に教えられてきました。だけれども、黒衣はぼくらをあざ笑うように、全てを壊すだけ壊していったのです」
黒衣。その名を口にするだけで、ユールクの中で不快な激情の塊が膨れ上がった。全身の血が沸き上がり、湯気を発するようだった。
「戦士様。ぼくは、あの竜を殺したい……一滴残らず、血を絞り出してやりたい。あの暴君を殺さねば、もう他の何も手に付かないのです」
彼は眉を寄せて、ぎゅっと目を閉じて、大人のように耐え忍ばねばと口を噤んだ。彼は賢かった。ただの狩人である自分に、そのようなことはできないと分かっていたのだ。
「黒衣を殺したいか」
そんなユールクに、青年から差し出されたのは一杯の白湯だった。彼はそれを受け取って、青年の赤紫の瞳を見つめた。温かな炎を映すそれは、やはりとても美しかった。
ユールクは頷くことで精一杯だった。青年も自らの分の白湯を口にして、白い息を吐いた。
「分かった」
青年はたったそれだけの言葉を返すだけだった。ユールクは目を丸くして、ありがとうございますという言葉さえ言い忘れてしまった。はっとして、それを言ってはみたものの、青年は表情ひとつ変えなかった。
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