2.日常の崩壊
1
総合病院の上階にあるVIP用の病棟。そのなかにある個室のドアをノックすると、「はーい」と少し幼さの残るかわいい声がした。
スライド式のドアを開けて中に入ると、ベッドに座っている妹の茉莉が嬉しそうに笑う。
「お姉ちゃん、来てくれんだ」
「うん。今日はヴァイオリンのレッスンが休みになったから。茉莉の好きなお店のシュークリーム買ってきたよ」
「わあ、ありがとう」
「紅茶入れる?」
「うん、茉莉も手伝うよ」
私がシュークリームを個室のテーブルに置いて備え付けの簡易キッチンでお湯を沸かす準備を始めると、ベッドから降りた茉莉がそばに寄ってきた。
「お姉ちゃん、今日は学校どうだった?」
シンクの上の棚からカップを取り出しながら、茉莉が訊ねてくる。
「うーん、どうってこともない。いつも通りだよ」
私が答えると「えー、なんかあるでしょ」と茉莉が笑う。
病院に来ると、茉莉は私に学校のことをいろいろ聞きたがる。それに対して、私はいつも、何をどんなふうに話せばいいのか困る。楽しいと言えば、自慢げに聞こえるかもしれないし、つまらないと言えば、学校に行けるくらい健康なのにと嫌味に思われるかもしれない。そういうことを、私は頭の中ですごく気にしてしまう。
今年で中学三年生になる茉莉は、中学生になってから数えるほどしか学校に行けていない。茉莉は生まれつきに心臓が悪くて、無理して身体に負荷がかかると発作が起きてしまうのだ。
そんな茉莉のことを両親は過剰に保護していている。茉莉だって、いつも体調が悪いわけではないのだろうけど、よほど体調が良いときにしか、病院の外に出してもらえない。
だから、茉莉にとっての私は、数少ない外の世界とのつながりのひとつだ。
広くて豪華だけれど、退屈な病院の個室。一日のほとんどの時間をここで過ごさなければならない茉莉のことを、不憫だと思う。
「そういえば……、今日は稀月くんは?」
ポットに作った紅茶をカップに注ごうとすると、茉莉が個室のドアの外を気にするような仕草を見せた。
「部屋の外で待ってるよ」
「遠慮せずに入ってくればいいのに。お姉ちゃん、稀月くんにも声かけてあげてよ。シュークリーム、いっしょに食べたい」
甘えるような、少し潤んだ瞳で茉莉が私を見つめてくる。昔から私は、茉莉のこの目に弱い。茉莉のためなら、なんでもしてあげなきゃという気持ちにさせられる。
私は小さく頷くと、稀月くんを呼びに個室を出た。
半年前に稀月くんが私のボディーガードになったとき、茉莉はとても驚いていた。
病気の茉莉にならともかく、健康なただの女子高生の私にボディーガードをつけた両親の過保護さにはもちろん、その男の子が整った顔をした男の子だったことにもだ。
あまり学校に行けない茉莉は、同じ年頃の子と話す機会がほとんどないし、ましてや男の子となんて顔を合わす機会もない。
だから、最近は私がお見舞いに来ると稀月くんのことを気にしてソワソワしている。これは私の推測だけど、茉莉はたぶん、稀月くんに恋をしている。
「稀月くん、部屋の中に入って」
ドアの外に立っている稀月くんに声をかけると、彼が無表情で私を見てきた。
「おれはここで待っています」
「でも……茉莉が稀月くんといっしょにシュークリーム食べたいって。だから、少しだけ」
そんなふうにお願いすると、稀月くんがふっと息を吐いて個室に足を踏み入れた。
基本的に稀月くんは、私以外の人間との交流を持たない。父との契約なのかどうかはわからないが、稀月くんの他人への無関心さは徹底している。
だけど、そんな稀月くんも茉莉の頼みは無視しない。両親に、茉莉のことも気遣うように言われているのかもしれない。
「稀月くん、こっち」
稀月くんが部屋に入ると、ソファーのテーブルに紅茶のカップを並べていた茉莉が笑顔で彼を手招きした。嬉しそうに頬を染めた茉莉は可愛い。目鼻立ちのぱっちりした茉莉は、美人な母によく似ている。そんな茉莉と私は椎堂家の姉と妹だけれど、見た目は全然似ていない。
昔から頻繁に茉莉のお見舞いに来ている私は、病院のスタッフたちともすっかり顔馴染みで、私たちを仲の良い姉妹だと思ってる。だけど、私と茉莉が姉妹なのは戸籍上だけ。私たちは血が繋がっていない。
生まれたときから身寄りのなかった私が、施設から椎堂の家に引き取られたのは六歳のとき。
ちょうどその頃、椎堂の両親は、病気がちで外に出られない茉莉の遊び相手になれるような女の子を探していた。
両親は茉莉の《妹》が探していたみたいだが、茉莉本人は「お姉ちゃんがほしい」と強く望んでいたらしい。
私がいた施設に椎堂の両親と茉莉がやってきた日、椎堂の両親が会いに来たのは私よりもふたつ年下の別の子だった。けれどその日、その子は朝から体調を崩してしまって、椎堂家の両親と面会ができなかった。
施設にいたときのことは、今はもううっすらとしか覚えていないけれど、私は年齢の割には小柄でおとなしくて、施設の他の子どもたちにうまく馴染めていなかった。
施設の子たちのなかには、あまり話さず笑わない私に嫌がらせのようなことをしてくる子たちがいて。椎堂家の家族が施設を出て帰ろうとしたとき、私は施設の子にわざと押されて、彼らの目の前で転んでしまった。
「大丈夫?」
そのとき、そばでしゃがんで私に手を差し出してくれたのが茉莉だった。
淡いピンクのワンピースに白の麦わら帽子。子どもなのに、小さな手を差しのべる所作はとても綺麗で。私にふわりと微笑みかけてきた茉莉は、外国のお人形――、というよりも、施設に置いてあった絵本の中から出てきたかわいいお姫様みたいだった。
見惚れる私に、茉莉は言った。
「茉莉、やっぱりお姉ちゃんがほしいな」
それが決め手になって、両親は私を椎堂の家に引き取った。
あのときから、茉莉は私の大切な家族で、可愛い妹で――。ひとりぼっちの世界から救ってくれたお姫様だ。
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