第8話揺らぎの影

スマートフォンが、ふるりと震えた。


ふと見下ろした画面に表示された名前に、駿の心臓が微かに跳ねた。

もう何度も削除しようとして、できなかった連絡先。

けれど──まさか、こんなタイミングで。


元カノ・葵からのLINEだった。


>「ごめんね、またこんな時間に…」

>「薬飲みすぎたかも。ちょっと頭がぼんやりしてる」

>「最近ほんとに何も上手くいかない」

>「たぶん…もう無理なのかも」

>「最後に駿くんの声、聞きたかっただけ」


目の前が、すうっと遠のくような感覚に襲われた。

手の中のスマホが、やけに重い。


(……なに、してんだよ……)


息が詰まる。

喉の奥にひっかかる何かを、うまく呑み込めない。


「最後に声が聞きたい」

それは、ただの懇願かもしれない。

でも、もし──

その言葉の裏に、“もう戻れない場所へ行く”覚悟が隠れていたら?


頭ではわかっている。

これはもう自分の責任ではない。

関係を終わらせたのは、ずっと前のこと。

今、そばにいてくれる人は別にいる。


でも、それでも。


指が、震えた。


返信欄を開いたまま、そこに文字が打てずにいる。

何かを書けば、それは“扉を開けてしまうこと”になる気がした。


何も書かなければ、何かが“終わってしまう”気がした。


(遥に、会いたい)


その名前を思い浮かべたとたん、

駿はスマホの画面を伏せ、両手で顔を覆った。


どちらの正解も、今の自分には持ち合わせていなかった。


───


夜道を駆けた。


エントランスのインターホン越しに、遥の顔が映る。


「……駿さん?」


その声を聞いた瞬間、駿の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。

自分でも気づかないほど自然に、でも確かに。


遥は驚いたような顔をしたが、何も聞かずにエントランスの鍵を開けてくれた。


玄関の扉が開くと、室内からほのかなあたたかさと、遥の匂いが流れ込んでくる。

駿は小さく頭を下げ、靴を脱いで静かに中へ入った。


「ソファ、座ってて。今、お茶淹れるね」


遥はそれだけ言うと、キッチンに向かった。

音を立てないようにお湯を沸かす。

駿の気持ちが乱れていることに気づいていたけれど、何も聞かなかった。


温められたカップに注がれた紅茶が、静かに湯気を立てていた。


「はい」


言葉少なに、遥は駿の前にカップを置き、自分もその隣に腰を下ろす。

距離は近すぎず、遠すぎず。

気遣いすぎない自然さが、逆に駿の胸を打った。


二人の間に、数分間の静かな時間が流れる。

湯気は少しずつ薄れ、紅茶の温度もじわりと下がっていく。


そして──


カップに触れた駿の指が、かすかに震えた。


「……元カノから、連絡が来たんだ」


ぽつりと、駿が言った。


「ODしたかもしれないって。もう無理かもって……」


遥は、息を飲んだ。

でも、すぐに言葉を返すことはしなかった。


「……俺、どうすればよかったんだろうな」


駿の声には、迷いと後悔と、どうしようもない優しさが滲んでいた。


それを聞きながら、遥は紅茶に目を落としたまま、しばらく黙っていた。


やがて、静かに、でもまっすぐに言った。


「……駿くんは、優しいけど……酷い人だね」


駿が、はっと顔を上げる。


「……遥?」


「その子のこと、守ろうとしてるつもりかもしれないけど、違うよ。

駿くんの“優しさ”に甘えて、依存してるんだよ」


遥の声には怒りはなかった。けれど、芯があった。


「優しさと甘さは、違うと思う」


駿は何も言えなかった。


「……本人のためになるのって、どっちだと思う?」


しばらくの沈黙のあと、駿はかすかに口を動かした。


「……優しさ、かな」


遥はうなずいた。


「だったら、きっぱりとしてあげることが“優しさ”になるんじゃないかな?」


その言葉が、駿の胸の奥深くに、静かに沈んでいくのがわかった。


遥は、決して責めていなかった。

ただ、今の駿に一番必要な言葉を、まっすぐに差し出しただけだった。


そして駿は──


ゆっくりとスマートフォンを取り出し、画面を見つめた。


まだ未読のままのメッセージ。

指が、それをそっと削除する。


「……ありがとう」


その声は、小さくて、でも確かに震えていた。


遥は何も言わずに、彼の隣に座ったままのカップに目をやった。


「冷めちゃったね」


そう言って、カップを手に取り、キッチンへ向かう。


お湯が沸く音が、静かに部屋を包んでいく。


やがて、湯気の立つ新しい紅茶を持って遥が戻ってきた。


「はい、あったかいうちに」


駿はそれを受け取り、こくりと小さくうなずく。


遥は隣に腰を下ろす。

さっきよりも、ほんの少しだけ近く。


テレビも音楽もない部屋に、あたたかい湯気と、ふたりの呼吸音だけが漂っていた。


「……今夜、ここにいてもいい?」


駿がそう呟いたとき、遥は何も言わずに、小さくうなずいた。


──それが、答えだった。

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