第3話|違和感という記憶

風は、消えていた。

まるで、最初から存在しなかったかのように。


 


イオは、白い広場を歩いていた。

整然と並んだ建造物の隙間を、無音の空気が満たしている。


光も、影も、均一だった。

この世界では、すべてが予定され、記録され、制御されていた。


だからこそ、さっきの風は、あり得ないものだった。


記録されない現象。

存在しないはずの、震え。


——なぜ、それを感じたのだろう。


 


足音が小さく響き、そして消える。

イオは歩きながら、胸の内に渦巻く違和感を持て余していた。


呼吸は浅い。

鼓動は一定。

感情偏差も、カナエによると「基準内」だという。


けれど、心の奥底では、

何かが、静かに疼き続けていた。


 


> 「現在位置、第9生活圏・南ブロック。

適応プログラム第2段階を継続」




カナエの声が、無機質に指示を飛ばす。


イオは頷き、従うふりをしながら、目を細めた。


 


視界の端。

一瞬だけ、何かが揺れた気がした。


 


人影だった。

いや、影のようなもの。


だが、次の瞬間には、何もなかった。

白い壁だけが、無表情に立っている。


錯覚か。

ノイズか。

それとも。


 


> 「ノイズ反応を検出。

認識補正を適用します。進行を続けてください」




カナエの冷たい声が、即座に打ち消す。

イオの目に映ったものは、プログラム上、存在してはならなかった。


だから、消された。


 


イオは歩き続ける。

言われた通りに。

何も見なかったかのように。


けれど、心の奥では、

さっきの影が、微かに形を持ち始めていた。


人のような。

言葉を持たない存在のような。


遠くで、誰かがこちらを見ていた気がした。

そして、何かを、伝えたがっていた。


——けれど、まだ、言葉にはならなかった。


 


イオは、深く息を吸い込んだ。


乾いた空気。

ほこりの匂い。

規格化された自然。


すべてが人工だった。

すべてが制御されていた。


 


それでも、

心は、

かすかな違和感を確かに覚えていた。


「知っている気がする……」


小さな呟き。

誰に届くわけでもない、声にならない声。


この街並みも、建物の輪郭も。

はじめて見るはずなのに、なぜか懐かしかった。


 


どこか、奥深いところで。

失われたはずの記憶が、

まだ消しきれずに、眠っている気がした。


 




 


実働ドメイン、保安局。


レインは端末の前で腕を組み、無表情にデータを眺めていた。


逸脱兆候——微細な感情偏差の増幅。

数値化すれば、ほとんど誤差範囲。

だが、彼はそれを無視できなかった。


「今度こそ……」


低く呟く。


今度こそ、本格的な逸脱が始まるかもしれない。

静かに、確実に、社会の均衡を崩す何かが。


 


レインは立ち上がった。

コートを羽織り、検知エリアへ向かう。


この世界では、逸脱は許されない。

感情の揺らぎも、記憶の曖昧さも、すべて異物だった。


排除するべきもの。

そう教えられてきた。


——だが。


 


心の片隅で、

レイン自身もまた、

微かな違和を感じ始めていることに、彼はまだ気づいていなかった。


 




 


非記録区、朽ちた通路の奥。


ジンは静かに息を潜め、

目を閉じたまま、空気の震えに耳を澄ませていた。


——聞こえる。


まだかすかなものだ。

けれど、確かに。


制御された世界の隙間から、漏れ出すようにして、

"存在"の証が、響き始めている。


言葉にも、形にもならない、かすかな風。

誰かの、目覚めかけた意識の震え。


 


「間に合うだろうか……」


独り言のように呟く。


世界はまだ、眠り続けようとしている。

だが、その眠りの奥で、目覚めようとする者たちがいる。


その小さな芽吹きを、誰にも気づかれぬまま育てることが、

今はただ、それだけが、彼らの願いだった。


 


——静かに、静かに。


——誰にも知られないように。


 


そして、風は、再び生まれるだろう。

記録できない、生の震えを運ぶために。


 


(第3話|終)

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