第4話|名前を呼ぶ声

歩き続けても、世界は変わらなかった。

無機質な建物。

記録されるために最適化された空気。

感情の揺らぎさえ許さない光景。


 


それでも、イオは、胸の内に小さなざわめきを感じていた。


理由はわからない。

記録にも、規範にも、説明はなかった。


けれど確かに——

この白い世界の下に、もう一つの、見えない世界が広がっている気がしていた。


 


イオは立ち止まる。

顔を上げる。

澄んだ空。雲ひとつない、人工的な青。


その青さの向こうに、

何か大切なものが隠されている気がした。


何か、もっと柔らかく、もっと暖かなものが。


 


> 「個体I-07、進行の遅延を検出。行動プログラムへの復帰を推奨」




カナエの声が耳に届く。


イオは答えない。

ただ、空を見上げたまま、微かな風に目を細めた。


 


ふいに、

耳の奥に、知らない声が響いた。


 


——イオ。


 


誰かが、呼んだ。


カナエではない。

あの無機質な観測AIでは、絶対に発することのできない、

温もりを帯びた呼びかけだった。


 


「……誰?」


思わず、声に出していた。

周囲には誰もいない。

ただ、白く均一な街並みだけ。


それでも確かに、

イオは呼ばれた。


その声は、

胸の奥を震わせた。


遠い記憶のような。

失われた約束のような。

あるいは、生まれる前からずっと、そこにあったかのような——。


 


イオは目を閉じる。

耳を澄ます。


何かが、胸の内側から零れそうだった。

涙でもない。

叫びでもない。


ただ、純粋な、存在の震え。


 




 


その瞬間。

BUDDAシステム内の一部モジュールが、わずかにエラーを記録した。


 


【感情偏差異常波形検知】

【観測ノード補正不能】

【処理継続】


 


エラーは微細だった。

無視できるレベルのもの。

だが、それは確かに存在した。


そして、静かに広がり始めていた。


 




 


実働ドメイン、保安局。


レインは報告端末を受け取り、眉をひそめた。


「逸脱兆候、局地的上昇……?」


小さく呟き、データを指でなぞる。


数値は微細だ。

通常なら見逃される程度。

だが、経験が告げていた。


これは、ただのノイズではない。


誰かが、世界の規格を超えようとしている。


 


「……現場に出るか」


レインはコートを羽織り、無言で出発準備に入った。


気付かれないままに芽吹くものなど、

この社会では決して許されない。


そう、教えられてきたはずだった。


 


それでも。

レイン自身もまた、

心の奥に微かな違和感を抱きながら、

都市の外縁へと向かっていった。


 




 


非記録区。


ジンは、朽ちた通信端末の前で目を閉じていた。


 


——届いたか。


 


世界を支配する網の目の、そのわずかな隙間から。

かすかな呼びかけが、確かに誰かに届いた。


たった一つの声。

たった一度の呼びかけ。


それだけで、世界は揺らぐ。

世界は、少しだけ軋み始める。


 


「間に合え……」


低く呟く。


これはまだ、始まりにすぎない。

だが、その始まりこそが、すべてだった。


 


未来を、変えるために。

記録できない存在を、

この世界に響かせるために。


 




 


イオは、

声の余韻を胸に抱いたまま、

静かに歩き出していた。


誰に言われたわけでもない。

どこへ行くかも知らない。


ただ、

胸の奥に生まれた小さな震えに、

自分自身が導かれるままに。


 


歩くたびに、

世界はほんのわずかに揺らいだ。


風が、また、頬を撫でた。

あたたかな、記録されない風だった。


 


(第4話|終)

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