第5話 鏡面の幻影

第5話 鏡面の幻影


 雨が上がった翌日、世界は洗われたように澄み渡っていた。


 街道を抜けると、視界が一気に開ける。眼前に広がっていたのは、空の青さをそのまま溶かし込んだような、広大な湖だった。


 ミラルカ湖。大陸でも有数の透明度を誇るこの湖は、風のない日には対岸の山々や雲を完璧に映し出すことから、別名「鏡の湖」と呼ばれている。


「うわぁぁ……! きれい……!」


 ルナがリュックを背負ったまま、湖岸へ駆け出した。


 水際は穏やかで、さざ波ひとつない。覗き込むと、水底の小石や泳ぐ魚の影まではっきりと見通せる。


「師匠! 見てください! 空を歩いてるみたいですよ!」


 ルナが水際でくるくると回る。水面に映った彼女の姿と、実像が重なり合って、まるで双子が踊っているようだ。


「……はしゃぎすぎです。落ちても助けませんよ」


 ノエルはゆっくりと歩み寄り、湖面を見つめた。


 七九年前と変わらない青。かつて、ここで野営をした夜のことを思い出す。


 月明かりの下、レオンが下手くそな水切りをして、「今の見たか!? 五回跳ねたぞ!」と子供のように自慢していた。ガストンは呆れながら酒を飲み、マリアは静かに水面へ祈りを捧げていた。


 ――きれいだな、ノエル。


 ふと、隣でレオンがそう言った記憶が蘇る。


 彼は湖を見ていたのか、それとも別の何かを見ていたのか。当時のノエルには、その視線の意味を解析する必要性を感じなかったし、問い返すこともしなかった。


 ただ、「水質は良好ですね」と答えただけだ。


 あの時の自分の返答を思い出し、ノエルは小さく息を吐いた。今なら、もう少し気の利いた言葉を選べるだろうか。


「師匠? どうしました? 怖い顔して」


 ルナが顔を覗き込んでくる。


「いえ。……水質の変わらなさに感心していただけです」

「もー、またそういう理屈っぽいことを。……あ、そうだ! 師匠、知ってますか? この湖に伝わる『運命の鏡』の伝説!」


 ルナの瞳が、獲物を見つけた肉食獣のように輝いた。


 嫌な予感がする。


「知りませんし、興味もありません」

「ええっ! 有名ですよぉ! 湖のどこかにある『澱みのない入江』を夕暮れ時に覗き込むと、水面に『運命の相手』の顔が映るんですって!」


 出た。ルナの大好物、ロマンチックで根拠のない都市伝説だ。


「非科学的です。水面に映るのは光学的な反射像、つまり自分自身の顔だけです」

「だから伝説なんじゃないですかぁ! 行きましょうよ師匠! ボート借りて! 私、どうしても自分の運命を知りたいんです!」

「却下です。次の街まで移動するリソースを優先します」

「ううっ……師匠のけちぃ……。一生のお願いですぅ……ここで運命の人を見つけないと、私の一生は売れ残りの孤独死確定なんですぅ……」


 ルナが地面にへばりついて泣き真似を始める。


 周囲の観光客が、何事かとこちらを見ている。


 ノエルは深々と溜息をついた。この弟子を拾ってから、溜息の回数が明らかに増えている。これは健康面で非効率だ。


 だが、ふと思う。


 運命の相手、か。


 もしそんな非科学的な現象が存在するとして、自分の水面には何が映るのだろうか。


 何も映らないのか。それとも――。


「一時間だけですよ」

「やったぁ! 大好きです師匠!」


 観光用の貸しボートに乗り込み、二人は湖へと漕ぎ出した。といっても、漕いでいるのは魔法だ。ノエルが杖先で水面を軽く叩くと、水流が勝手に発生し、ボートを滑るように進ませていく。


 かいを漕ぐ音もしない。ただ、船首が水を切る微かな音だけが響く。


 湖の中央まで来ると、周囲の喧騒は消え、完全な静寂に包まれた。


 空の青と、水の青。その境界線が曖昧になり、空中に浮いているような錯覚に陥る。


「……静かですね」


 はしゃいでいたルナも、この圧倒的な静けさに気圧されたのか、小声になった。


「えっと、ガイドブックによると……『二つの大岩が寄り添う場所の奥』だそうです!」


 アバウトすぎる情報だ。だが、ノエルの索敵能力にかかれば、地形の照合は容易だった。


 湖の北側。切り立った崖の下に、確かに二つの巨岩が門のように並んでいる場所があった。


 ボートはその隙間を抜け、静かな入江へと滑り込む。そこは、外界から隔絶された聖域のようだった。


 水面はガラスのように滑らかで、崖に咲く花々の色彩を鮮やかに映し出している。


 ちょうど、夕暮れ時。空が茜色に染まり始め、水面もまた、燃えるような赤と黄金色に変わっていく。


「……ここです。間違いありません」


 ルナがごくりと喉を鳴らした。


「さあ、ルナ。覗き込んでみなさい。あなたの運命の相手とやらを」


 ノエルがボートを止めると、ルナはおそるおそる水面へと顔を近づけた。


 船縁を掴む指が白くなっている。彼女は、ただ恋に憧れているのではない。


 「誰でもいいから私を必要としてほしい」という切実な渇望。その答えを、この水面に求めているのだ。


 ルナは目を閉じ、祈るように呟いてから、パッと目を開いた。


「…………」


 沈黙。


 一秒。二秒。三秒。


 風が止まり、波紋一つない水面が、彼女の視線を受け止める。


「……なんにも映りません」


 ルナががっくりと肩を落とした。


 その声は、失望というより、諦めに近かった。


「見えるのは、私の……泣きそうな顔だけです」


 ルナは水面を見つめたまま、力なく笑った。


「やっぱり、伝説なんて嘘だったんだ。……それとも、私には運命の人なんていないってことなのかな」

「……条件が不確定だったのでしょう」


 ノエルは慰めるように言った。


「あるいは、あなたの運命はまだ確定していないという観測結果かもしれません。未来は流動的ですから」

「……そうですね。まだ決まってないだけですよね」


 ルナは顔を上げ、強がりの笑顔を作った。けれど、その瞳の奥には、また一つ「自分は誰にも選ばれない」という確信が積み重なったような暗さがあった。


 ルナは船底に座り込み、ふてくされてお菓子を取り出し始めた。


「師匠も見てみたらどうですか? どうせ何も映りませんけど。減るもんじゃないですし」

「私は結構です」

「えー、もしかしてイケメンが映っちゃうのが怖いんですか?」


 ルナが挑発的にニヤリと笑う。


 ノエルは眉をひそめた。そんな挑発に乗るつもりはない。


 だが。


 水面が、呼んでいる気がした。


 夕焼けの色が濃くなり、水面は血のような赤から、深い紫色へと変わりつつある。


 レオンもまた、この場所に来たことがあったのだろうか。彼は「きれいだな」と言った。それは、ただの風景への感想だったのか。それとも、水面に何かを見ていたのか。


 ノエルは何かに引かれるように、水面へと身を乗り出した。


 鏡のような水面。そこに映っているのは、七九年前と何一つ変わらない、少女のままの自分の顔。無表情で、冷たくて、作り物のような顔。


 ――何も映らない。当然だ。


 これは光学現象に過ぎない。


 ノエルが顔を上げようとした、その時だった。


 ゆらり。


 水面の向こう。自分の顔のすぐ隣に。


 揺らぐ陽炎のように、誰かの影が見えた気がした。


 茶色の髪。いたずらっぽい瞳。こちらを見て、優しく微笑んでいる。


「ッ……!?」


 ノエルは息を呑み、水面を凝視した。だが、そこにはもう、自分の顔しか映っていない。微かな風が吹き、さざ波が像を掻き消していく。


 幻覚だ。夕日の悪戯。あるいは、脳内の記憶データが視覚野に干渉しただけの不具合。


 分かっている。分かっているのに。


 心臓が早鐘を打っている。胸の奥が、締め付けられるように痛い。


 ――きれいだな、ノエル。


 記憶の中の声がリフレインする。


 あの時。七九年前のあの夜。彼は湖を見ていたのではない。隣にいた私を見ていたのだとしたら。


(考えるのはよそう……)


「……師匠? 顔、赤いですよ? もしかして、本当に何か見えたんですか?」


 ルナが菓子を齧りながら、不思議そうに聞いてくる。


 ノエルは慌てて水面から顔を背けた。


「……何も。ただの反射光です」


 声が震えないようにするのが精一杯だった。


「えー、つまんないの。やっぱり伝説はガセネタですね。……あ、でもこのお菓子美味しい。師匠も食べます?」


 差し出された安っぽい焼き菓子。ノエルはそれを受け取り、口に運んだ。


 パサパサして、甘ったるい。けれど、今の動揺した心には、そのチープな甘さが妙に染みた。


「……味覚センサー、正常。ただの小麦粉と砂糖の塊です」

「素直じゃないなぁ」


 日が完全に沈む頃、二人はボートを返却し、湖畔の宿へと向かった。


 ルナはもう伝説のことなど忘れたように、「今日の夕食は魚料理ですかね!」とはしゃいでいる。


 ノエルは一度だけ、振り返って湖を見た。夜の帳が下り、湖面はもう何も映していない。ただの黒い水たまりだ。


 運命の鏡などない。未来を教えてくれる魔法もない。


 ルナが見たのは「孤独な自分」であり、ノエルが見たのは「過去の幻影」だった。


 鏡は、見る者の心を映すだけなのかもしれない。けれど、水底に沈めていた記憶の欠片を、ほんの一瞬だけ拾い上げることができた。


 それだけで、今日の非効率な寄り道には、十分な価値があった。


「行きますよ、ルナ。魚料理なら、香草焼きがいいですね」

「賛成です! あ、デザートもつけちゃいましょうよ!」


 二人の影が、街灯に照らされて伸びていた。

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