第4話 役立たずの魔法
第4話 役立たずの魔法
宿場町カライでの滞在は、予想よりも少し長引いていた。理由は、ルナが市場の熱気に当てられ、謎の使命感に燃え始めたからだ。
「師匠! 見てください! 『情熱の赤い粉』と『愛の黄色い実』を買いました!」
宿の部屋に戻ってきたルナが、小瓶を両手に掲げて鼻息を荒くしている。
「……ただの唐辛子とクミンシードですね。何をするつもりですか」
「決まってるじゃないですか。私の手料理で、師匠の胃袋とハートを鷲掴みにするんです!」
どうやら昨夜の激辛カレー体験が、彼女の中で変な方向に昇華されたらしい。
それからの二日間、ノエルはルナの「創作スパイス料理」の実験台にされた。焦げた謎の炒め物や、舌が痺れるスープ。味は酷いものだったが、ノエルはそれを「非効率な栄養摂取」と言いつつも完食した。
不味い。けれど、誰かが自分のために作ってくれた料理の味だ。
七九年前、料理上手だったマリアが風邪を引いた時、レオンとガストンが作った「泥のようなリゾット」を思い出す。あの時も、文句を言いながら全員で平らげた。
不味い記憶もまた、積み重なる過去の一層になる。
◇ ◇ ◇
カライを出発した朝、空は鉛色に沈んでいた。
予想通りの雨だ。街道は赤土が濡れて赤黒く変色し、踏みしめるたびに泥が靴にまとわりつく。
「うぅ……最悪ですぅ。靴の中がぐちょぐちょしますぅ……」
ルナが悲痛な声を上げた。
彼女のリュックは、カライで買い込んだスパイスの瓶が増えたせいで、さらに重量を増している。その重みで泥濘に足を取られ、歩くたびにべちゃり、べちゃりと不快な音を立てていた。
対して、ノエルは優雅そのものだった。
彼女の周囲だけ雨粒が避けるように落ちていき、泥水もマントの裾に触れることなく弾かれている。
「師匠だけズルいです! 私にもその魔法かけてくださいよぉ!」
「魔力の無駄遣いです。それに、雨に濡れるのもまた一興だと、以前誰かが言っていました」
「誰ですかその風流人は! 絶対、屋根のあるところから雨を見てた人ですよ!」
ルナが頬を膨らませる。
誰だったか。
確か、レオンだ。雨の中の行軍を余儀なくされた時、彼は濡れた髪をかき上げて笑っていた。『空が泣いてるなら、俺たちが笑ってやるしかないだろ』と。
ノエルは杖をつきながら、ふと足を止めた。
雨音に混じって、別の音が聞こえる。馬のいななきと、車輪が空転する音。
「……前方、反応あり」
「えっ? 魔物ですか?」
ルナが慌てて杖を構える。
霧雨の向こうに見えてきたのは、一台の幌馬車だった。
街道の大きな窪みで車輪が泥に深く嵌まり込み、傾いている。御者台では、若い男が馬の手綱を引いたり、車輪を押したりして悪戦苦闘していた。
「あちゃー、派手に嵌まってますね」
「放っておきましょう。関われば時間がロスします」
ノエルは興味なさげに通り過ぎようとした。しかし、ルナの足がピタリと止まる。
「……師匠。ちょっと待ってください」
「なんですか」
「あれ……イケメンじゃないですか?」
ルナの目が、雨の中でも怪しく光った。
言われてみれば、困っている御者は栗色の髪をした青年で、濡れたシャツが筋肉質な体に張り付いている。
「これは……運命の出会い! 雨の日のアクシデントから始まる恋!」
「妄想はいい加減にしなさい」
「いいえ、これは人道支援です! 困っている人を見捨てるなんて、未来の大魔法使いとしてあるまじき行為です!」
ルナはリュックを放り出し、泥も厭わず青年の方へ駆け出した。
「大丈夫ですかーっ! 私たちが手伝いますよー!」
「あ、ありがとう! 助かるよ!」
青年がパッと顔を輝かせる。その爽やかな笑顔に、ルナは「ひゃぅ」と変な声を上げて赤面した。
ノエルは深く溜息をついた。
非効率極まりない。だが、この弟子の暴走は、止めても無駄だと数日で学習した。
「せーのっ! ふんぬぅぅぅ!」
ルナが全身泥だらけになりながら、車輪を後ろから押す。青年も馬を御するが、泥濘は深く、車輪は空転するばかりだ。
「だ、ダメですね……もっとパワーが必要です……」
「君たち魔法使いだろ? 何か魔法で持ち上げられないかな?」
青年が期待の眼差しを向ける。
ルナは張り切って杖を掲げた。
「任せてください! 風の魔法で、車体を浮かせます! 見ててくださいね、私の愛の力を!」
「《ウィンド・ブラスト》!」
ドォォォン!! 突風が巻き起こった。
だが、制御の甘いルナの魔法は、車体を浮かせるどころか、周囲の泥水を盛大に巻き上げ、爆散させただけだった。
「ぶべらっ!?」
至近距離で泥のシャワーを浴びた青年が、茶色い塊になって吹き飛んだ。
「ああっ! ご、ごめんなさいっ! イケメンが泥メンに!」
「なにをしているのですか」
冷ややかな声が降ってきた。
いつの間にか近づいてきていたノエルが、呆れ顔で立っている。
「ど、どいてください師匠! 今、私が拭いてあげますから!」
「退きなさい。二度手間です」
ノエルは杖を軽く振った。
「《
数トンの荷物を積んでいるはずの馬車が、まるで羽毛のようにふわりと浮き上がった。そのまま数メートル移動し、泥濘のない硬い地面へと静かに着地する。
続けて、泥だらけになった青年とルナに向けて杖を振る。
「《
一瞬で泥汚れが消滅し、二人は小奇麗な姿に戻った。
「す、すげぇ……」
青年が目を丸くして立ち上がった。
「無詠唱でこの規模の質量操作……あんた、ただの魔法使いじゃないな?」
「通りすがりの一般人です。……礼は結構。行きますよ、ルナ」
ノエルはさっさと背を向けた。だが、青年が慌てて呼び止める。
「待ってくれ! 助けてもらったのに、礼もしないなんて商人の名折れだ!」
青年は馬車の荷台をごそごそと探ると、一冊の古い本を取り出した。
「俺は古道具や珍しい本を扱ってる行商人なんだ。金貨で払えるほど儲かっちゃいないが、これを受け取ってくれ」
差し出されたのは、カビ臭い薄っぺらな魔導書だった。
「『生活を彩る民間魔法集』……? なんだか胡散臭いですね」
ルナが横から覗き込む。
「中身は保証するよ。まあ、戦闘には役に立たないけど、面白い魔法が載ってるんだ」
ノエルは本を受け取った。
パラパラとめくる。
『服のシミを消す魔法』『パンをふっくら焼く魔法』『銅像の錆を落とす魔法』……。
確かに、大魔法使いのノエルにとっては無価値なものばかりだ。すべて既存の魔法の応用で再現できるし、これらを覚えるリソースが無駄だ。
返そうとして、ふと手が止まった。あるページに、栞が挟まっていたのだ。
『温かい飲み物を、飲み頃の温度に保つ魔法』。
七九年前。猫舌だったレオンが、熱いコーヒーを飲むたびに「熱っ! 舌焼けた!」と騒いでいたのを思い出す。
冷ます魔法はある。温める魔法もある。けれど、「飲み頃を維持する」だけの魔法なんて、誰も開発しようとしなかった。あまりに限定的で、あまりに個人的すぎるから。
もし当時、この魔法を知っていたら。
彼はもう少し静かに、そして美味しく、コーヒーを飲めたかもしれない。
「……いただきます」
ノエルは本を懐にしまった。
マリアの日記の隣に。
「えっ? 貰うんですか師匠? そんなのゴミじゃ……」
「情報収集です。民間伝承の中には、稀に未知の術式のヒントが隠されている場合があります」
もっともらしい嘘をつく。
青年は嬉しそうに笑った。
「よかった! 気に入ってもらえて。……じゃあ、俺は急ぐから。隣町で妻と娘が待ってるんだ」
「……はい?」
ルナの動きが止まった。
「妻?」
「ああ! 娘が先月生まれたばかりでさ、早く顔が見たくてね! それじゃあ、気をつけて!」
青年は爽やかに手を振り、馬車を走らせて去っていった。
雨上がりの街道に、虹がかかっている。
取り残されたのは、美しい師匠と、石化した弟子。
「……き、既婚者……子持ち……」
ルナが膝から崩れ落ちた。
「私の……雨上がりのロマンスが……」
「学習しませんね」
ノエルは呆れつつも、内心では少し安堵していた。これでまた、面倒な「恋の寄り道」をしなくて済む。
その日の夜。野営地にて。ルナは失恋のショックで、早々に寝袋に潜り込んでしまった。「男なんてみんな嘘つきだ」とうわ言のように呟いている。
ノエルは一人、焚き火の前で、昼間もらった魔導書を開いていた。
『飲み頃の温度に保つ魔法』
複雑な術式ではない。ただ、魔力の波長を液体の分子運動に同調させ、過剰な熱を逃がしつつ、冷気を遮断する。
繊細で、優しい魔法だ。
ノエルは淹れたてのコーヒーに、杖を向けた。
いつもなら、すぐに冷めてしまうか、熱すぎて飲めないかだ。
魔法をかける。
湯気が、ふわりと和らいだ気がした。
一口飲む。熱くない。けれど、冷たくない。じんわりと体に染み渡る、ちょうどいい温度。
「……くだらない」
ノエルは呟いた。
こんな魔法を覚えて、何になるというのか。これをかけてあげる相手は、もういないのに。
けれど、その温かさは、冷え切ったノエルの指先を解いていくようだった。かつてレオンは、こういう「役に立たない魔法」が大好きだった。
『すげえなノエル! 服が一瞬で綺麗になった! お前はやっぱり天才だ!』
魔王を倒す魔法よりも、泥汚れを落とす魔法に目を輝かせていた勇者。
彼は知っていたのかもしれない。世界を救うのは大魔法だけれど、人の心を救うのは、こういう些細で役に立たない魔法なのだと。
ノエルはコーヒーを飲み干した。
燃え残りの薪が爆ぜる音が響く。
この本は捨てない。「効率」という定規では測れない、大切なガラクタとして、カバンの中にしまっておこう。
そう決めて、ノエルは静かに目を閉じた。
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