第3話 激辛の記憶
第3話 激辛の記憶
旅に出てから数日。石畳の街道はいつしか赤土の道に変わり、景色は乾いた荒野へと移り変わっていた。
吹き抜ける風が、ルナの背負う巨大なリュックを揺らす。カラン、コロン、と鍋やフライパンがぶつかり合い、不格好な音を立てていた。
「……非効率です」
前を歩くノエルが、振り返らずに言った。
「次の街で鍋を一つ処分しなさい。その荷物の重量は、あなたの体格に対して過積載です」
「嫌です! これは私の『夢』と『思い出』が詰まってるんです!」
ルナが荒い息を吐きながら抗議する。背負っているのは、ただのキャンプ道具ではない。フロリアの道具屋で買ったフライパン、安売りのシーツ、綺麗な空き缶。
「捨てちゃったら、私がそこにいたことが消えちゃうじゃないですか!」
ルナの叫び声が、乾いた風に吸い込まれる。
孤児院で育った彼女には、自分のものと呼べるものが何もなかった。与えられるのは共有の服と、誰かの使い古しだけ。
だから彼女は、手に入れたものを手放せない。それがどんなにガラクタでも、彼女がその時を生きた証だから。重くても、背負っていなければ不安で押しつぶされそうになるのだ。
ノエルは足を止めた。
――捨てたら、消えてしまう。
その非論理的な言葉が、棘のように引っかかった。
ノエルは自分の胸元に触れる。マントの下、懐に入れた古い日記と、錆びついた折れた剣。彼女自身もまた、物理的には無価値なガラクタを、七九年もの間、捨てられずに引きずっている。
「……休憩にします」
ノエルは短く告げた。
ルナが「やったぁ!」と、その場にリュックを放り出し、大の字になって倒れ込む。
その顔は汗と埃で汚れているが、苦痛よりもどこか安堵が滲んでいた。重い荷物に押し潰されている時だけ、彼女は自分の存在を確認できているのかもしれない。
昼過ぎ、二人は宿場町カライに到着した。
街全体が赤い砂塵と、鼻を突くスパイスの香りに包まれている。行き交う人々は皆、汗を流しながら笑い合い、熱気に満ちていた。
ルナがふと足を止めたのは、一軒の古びた食堂の前だった。
『元祖・爆炎カレー ~勇者レオンも泣いて逃げ出した味~』
看板の文字を見て、ルナが問う。
「勇者様って……師匠の昔の仲間ですよね?」
「ええ。見栄っ張りで、向こう見ずな男でした」
ノエルは目を細めた。七九年前の記憶の層が、一枚めくられる。
ここでレオンは「勇者の威厳を見せる」と言ってこのカレーに挑み、無様に敗北した。マリアは呆れ、ガストンは腹を抱えて笑った。
どうでもいい記憶だ。世界の命運には何の関係もない、ただの食事の風景。けれど、その一枚の板が、今のノエルを支えている。
「私、これ食べます!」
ルナが突然、宣言した。
「やめておきなさい。あなたの味覚レベルでは――」
「食べたいんです。……勇者様が食べた味を、私も知りたいんです」
ルナは真剣な目で看板を見上げていた。
「師匠の見てきた景色を、私には想像することしかできません。師匠の中にある七九年分の思い出に、私は入れない。だから……せめて味だけでも共有できたら、少しは師匠の『隣』に近づける気がして」
ノエルは口をつぐんだ。この弟子は、ノエルの抱える「過去という分厚い板」の重さを感じ取り、それでも同じ場所に立とうとしているのだ。
「……好きにしなさい。後悔しても知りませんが」
店内は蒸し風呂のような熱気だった。
運ばれてきた深紅の皿を前に、ルナがゴクリと喉を鳴らす。
「い、いただきます……!」
震える手で一口。その直後、ルナの動きが止まった。顔色が赤から青へ、そして白へと変わる。
「…………っ!!!!」
声にならない悲鳴。涙目になりながら水をがぶ飲みし、テーブルに突っ伏した。
「……だから言ったのです」
ノエルは呆れながら、自分の頼んだ野菜スープを啜ろうとした。だが、ふと手が止まる。
目の前で悶絶する弟子。その姿が、七九年前の光景と重なる。
あの時、自分はどうしたか。
『情けない』と罵倒しながらも、レオンの分の皿を引き寄せ、代わりに平らげたのではなかったか。
『お前、すげえな……! やっぱ敵わねえや』
悔しそうに、でもどこか嬉しそうに笑ったレオンの顔。その記憶が、
ノエルは無言で、ルナの皿と自分のスープを入れ替えた。
「え……師匠……?」
涙目のルナが顔を上げる。
「残すのは資源の無駄です。それに……」
ノエルはスプーンを口に運んだ。
「これは、私にとっても必要な儀式ですから」
激痛が走る。舌が焼けるようだ。
味覚遮断などしない。この痛みは、記憶の再生装置だ。熱さが喉を通るたびに、忘れていた些細な会話、店内の喧騒、仲間の笑い声が、痛みを伴って蘇る。七九年前に積み重ねた一枚の板が、今、熱を持って脈打っている。
ノエルは黙々と食べ続けた。その横顔を、ルナはただ静かに見つめていた。
その夜、二人は街の宿に泊まった。窓からは、砂漠の冷たい月が見える。
ルナはベッドの上で、膝を抱えていた。胃薬を飲んで少し落ち着いたようだが、まだ顔色は悪い。
「……ごめんなさい、師匠。結局、助けられちゃって」
「気まぐれです。気にすることはありません」
ノエルは窓辺で、書きかけの地図を修正していた。
長い沈黙の後、ルナがぽつりと呟いた。
「私ね、師匠。……小さい頃、ずっと一人だったんです」
それは、彼女が背負ってきた過去の話だった。
「誰も私の名前を呼んでくれなくて、自分が透明人間になったみたいで。……だから、いつも明るくして、騒いで、誰かに見つけてもらいたくて」
重い荷物も、騒がしい求愛行動も。すべては「透明な自分」への恐怖から来るものだった。
「恋人が欲しいのも、誰かに『必要だ』って言ってもらいたいからで……。一人になると、自分が空っぽみたいで怖くて」
ルナが膝に顔を埋める。
ノエルは振り返り、月明かりに照らされた弟子を見た。彼女は怯えている。世界に置いていかれることを。
それは、不老の呪いを受け、誰もいない時間を歩き続けてきたノエルが、心の奥底に何重にも積み重ねてきた恐怖と同じ形をしていた。
「……空っぽなら、これから詰めればいいだけです」
ノエルは不器用に言葉を紡いだ。
「今日のカレーの味は、忘れたくても忘れられないでしょう?」
「……はい。死ぬほど辛かったです」
「なら、一つ埋まりましたね。……そうやって、くだらない記憶を一つずつ積み重ねていくのが、旅というものです」
ルナが顔を上げ、きょとんとした後、泣き笑いのような表情を浮かべた。
「……そうですね。師匠と食べた激辛カレー、一生忘れません」
ルナはベッドに潜り込んだ。やがて、安らかな寝息が聞こえ始める。
ノエルは一人、月を見上げた。口の中には、まだヒリヒリとした痛みが残っている。七九年前の記憶と、今の記憶。二つの記憶が重なり合って、胸の奥の冷たい場所を、少しだけ温めていた。
――おやすみなさい、レオン。
心の中で呼びかけた。
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