第2話 春告げの街
第2話 春告げの街
王都から乗合馬車に揺られること三日。
巨大な石造りの城門をくぐると、そこは色彩の洪水だった。
城塞都市フロリア。大陸南部、温暖な気候に恵まれたこの街は、別名「春告げの街」と呼ばれている。
街路樹はピンクや白の花を咲き誇らせ、石畳の道には風に舞った花弁が絨毯のように敷き詰められていた。どこからともなく、甘い花の香りと、焼き立てのパンの香ばしい匂いが漂ってくる。
「……平和ですね」
ノエルは馬車を降り、眩しそうに目を細めた。
七九年前、この街は魔王軍の侵攻ルート上にあり、避難民と負傷兵で溢れかえっていた。血と泥の臭いが充満し、美しい花々は戦火に焼かれて灰になっていた。
だが今、目の前にあるのは、そんな過去などなかったかのような穏やかな日常だ。行き交う人々は笑い合い、色とりどりの服を身に纏っている。
世界は、傷跡を癒やし、前に進んでいる。
ノエルだけを置き去りにして。
彼女はフードを深く被り直し、大通り沿いのカフェテラスに席を取った。
注文したのは、季節のフルーツタルトと紅茶。かつて、勇者レオンが「平和になったら、腹がはち切れるまで甘いものを食ってやる」と語っていたのを思い出したからだ。
運ばれてきたタルトは宝石のように輝いていた。一口食べる。甘酸っぱい苺の味が口いっぱいに広がる。
「……味覚センサーは正常。糖度も適正値です」
ノエルは小さく呟いた。
美味しいという概念は理解できる。けれど、心が動かない。かつて泥だらけの手で分け合った、硬くて酸っぱい野イチゴの方が、なぜか遥かに「甘かった」気がする。
周囲を見渡す。恋人たちが語らい、家族が笑い合っている。
ガラス一枚隔てた向こう側のアクアリウムを眺めているようだ。彼らの時間は流れているのに、自分の時間だけが凍りついている。
その疎外感を打ち消すように、ノエルは冷めた紅茶を口に運んだ。
ふと、視界の端で何かが動いた。広場の隅。大きな時計塔の下あたりだ。
一人の少女が、杖を振っている。
年齢は一五、六歳ほどだろうか。亜麻色の髪を二つに結い、どこにでもいる町娘のような服装だ。ただ、その表情は真剣そのもので、何かの儀式のようにブツブツと呟いている。
「風よ……花よ……私の恋心を乗せて、あの方の元へ……!」
少女が杖を振り上げると、足元の花びらが数枚、ふわりと舞い上がった。
……そして、力なく落ちた。
「ああっ、もう! また失敗!」
少女は悔しそうに地団駄を踏んだ。
「これじゃあハンス君に見せられないじゃない……。もっとこう、バァーッと華やかに、女神様みたいに登場するはずなのにぃ」
どうやら、魔法の練習というよりは、求愛行動の一環らしい。少女の視線の先には、パン屋の店先で働く金髪の青年がいる。あれが標的か。
ノエルは紅茶を啜りながら、冷めた目で観察を続けた。
魔力制御がなっていない。イメージが散漫だ。あのような未熟な魔法で人の心を動かそうなど、非効率にも程がある。
少女は気を取り直し、手鏡を取り出して前髪を直すと、決死の覚悟でパン屋へと突撃していった。
一分後。少女は真っ白に燃え尽きた灰のような顔で戻ってきて、噴水の縁にへたり込んだ。
「……『妹みたいにしか思えない』って……」
聞こえてくる独り言。
「妹って何ですか!? 私と彼は赤の他人ですよ!? 法的にも生物学的にも婚姻可能なのに!」
見事な玉砕だ。ノエルは興味を失い、視線を地図に戻した。
他人の恋愛沙汰など、時間の無駄だ。
翌日も、その翌日も。ノエルがカフェで時間を潰していると、必ずその少女が現れた。
昨日はパン屋のハンス。今日は花屋の青年。明日は八百屋の息子。少女は毎日違う相手にアタックし、毎日違う理由で断られ、そのたびに噴水の陰で膝を抱えていた。
「うぅ……私の運命の人はどこぉ……」
独り言が聞こえてくる。
「誰でもいいから……私を『一番』にしてよぉ……」
その言葉に、ノエルは手を止めた。
誰でもいい。それは、愛ではない。ただの「依存」への渇望だ。彼女は恋がしたいのではない。誰かに必要とされ、自分の存在を固定してほしいだけなのだ。
そうしなければ、自分が透明になって消えてしまいそうだから。
(……非効率ですね)
ノエルはカップを置いた。だが、無視することはできなかった。
その少女の抱える空虚な穴の形が、ノエル自身の胸に開いた穴と、よく似ていたからだ。
滞在四日目。ノエルは出発の準備を整えていた。この街での補給は完了した。長居する理由はない。
最後にもう一度だけ、あのタルトを食べようとカフェに寄った時だった。
広場がにわかに騒がしくなった。
「危ない! 避けろ!」
怒号と共に、蹄の音が響く。
市場の方から、荷馬車が暴走してきたのだ。積み荷のバランスが崩れ、馬がパニックを起こしている。
人々が悲鳴を上げて逃げ惑う。平和な午後の空気は一瞬で霧散した。
暴走する馬車の進路上。逃げ遅れた子供が一人、転んで動けなくなっている。距離が近すぎる。誰も間に合わない。
ノエルは席を立って杖に手を伸ばす。風魔法で馬の足を払うか、重力魔法で荷台を押し潰すか。どちらにせよ、多少の被害は避けられない。
だが、ノエルが魔法を放つよりも早く、影が飛び出した。
あの少女だ。いつものように噴水で落ち込んでいた彼女が、弾かれたように走り出し、子供の前に立ちはだかったのだ。
彼女の足は震えていた。顔は恐怖で引きつっている。それでも、彼女は逃げなかった。
「――来ないでっ!」
少女は杖を突き出した。
それは、恋のおまじないで見せたような、頼りない魔法ではなかった。
「《シールド》!」
叫び声と共に、青白い光の障壁が出現した。
ドォォォォン!! 馬の蹄と、数トンの荷物を積んだ車体が、障壁に激突する。凄まじい衝撃音が響き、周囲の石畳がひび割れた。
「う、うぐぐぐ……っ!」
少女は歯を食いしばり、必死に杖を支えている。ミシミシと音がする。彼女の華奢な腕が悲鳴を上げているのが分かる。
ノエルの目がわずかに見開かれた。
――硬い。あの未熟な魔力操作で、物理的な質量攻撃を正面から受け止めているのか。
構成式が異常だ。通常、防御魔法は「魔力の膜」を張るものだが、彼女のそれは「空間そのものを拒絶する」ような、歪で、だからこそ強固な多重構造をしている。
これまでの人生で積み重ねてきた「拒絶」と「恐怖」の板が、魔力を極限まで圧縮し、物理法則すらねじ曲げる盾を形成している。
「い、いやぁぁっ! 止まってぇぇっ!」
少女が涙目で叫ぶ。
限界が近い。このままでは押し潰される。
ノエルは指先を振った。
「《スリープ》」
指先から放たれた不可視の波動が、暴れる馬の脳幹を揺らす。
直後。ヒヒィン……と馬がいななき、まるで糸が切れた操り人形のように、唐突に膝から崩れ落ちた。
勢いを失った馬車は、少女の盾に寄りかかるようにして、不自然なほど静かに停止した。
静寂が戻る。
少女はへなへなと座り込んだ。
「はぁ……はぁ……し、死ぬかと思った……」
子供が泣き出し、母親が駆け寄ってくる。周囲の人々が「大丈夫か!」と集まってくる。
少女は人混みに紛れ、こっそりとその場を離れた。
誰も彼女の功績に気づいていない。馬が勝手に止まったように見えたようだ。そして少女自身も、名乗り出る勇気などない。
ノエルは、ふらふらと路地裏へ向かう少女の後を追った。
路地裏の木陰で、少女は膝を抱えていた。
「怖かったぁ……。もうやだ、足がガクガクする……」
自分の手をさすりながら、べそをかいている。
「……無謀な行動です」
頭上から声をかけると、少女がビクリと肩を震わせて見上げた。
「実力差を考慮せず、物理的質量に対して正面から挑むなど、自殺行為に等しい」
「だ、誰ですか……?」
「通りすがりの魔法使いです」
ノエルは淡々と答えた。
「ですが、あの防御魔法の構成、悪くありませんでした」
「え?」
「恐怖心が魔力の密度を高めていますね。守りたいという意志よりも、自分が傷つきたくないという拒絶の意志が、盾を硬くしている」
少女は目を見開いた。
自分の魔法を一目で見抜かれた。それも、自分自身すら自覚していなかった「臆病さこそが力の源泉である」という本質を。
彼女には分かった。目の前の銀髪の女性が、ただ者ではないことが。言葉の端々から滲み出る、圧倒的な知識と経験の重み。
本物の、魔法使い。
「……名前は?」
「ル、ルナ……です。魔法使い見習いの」
ルナ。月か。
ノエルは空を見上げた。
青空に、薄く白い月が残っている。太陽の光を借りなければ輝けない、頼りない星。
ノエルは太陽を失った。けれど、一人で夜道を歩くには、その頼りない月明かりくらいは、あってもいいのかもしれない。
この少女もまた、自分と同じように「何か」が欠けていて、それを埋めるために必死なのだから。
「ルナ。あなたは魔法使いになりたいのですか?」
「は、はいっ! なりたいです! 立派な魔法使いになって、私を振った男たちを見返して……それに、もっと素敵な恋を見つけて、幸せになりたいんです!」
あまりに俗物的な動機。世界平和でも、真理の探究でもない。ただの個人的な、ちっぽけな欲望。だが、その瞳には嘘がなかった。死の恐怖に震えながらも、前を向こうとする光があった。
それは、七九年間止まっていたノエルにはないエネルギーだ。
「……私は北へ行きます。古文書の解読と、荷物持ちが必要です」
「えっ?」
「給金は出します。食費と宿代も持ちましょう。ただし、旅路は過酷ですし、私の研究に付き合わされることになります」
ノエルは無表情のまま告げた。
「来るなら、ついてきなさい。……一人で歩くのは、少々静かすぎますから」
ルナの顔が、ぱあっと輝いた。
さっきまでの恐怖も、失恋の涙も忘れたように、満面の笑みが広がる。
「行きます! 行かせてください! 私、こう見えても体力には自信があるんです!」
少女が立ち上がる。その笑顔は、ノエルが失った「生気」そのものだった。
「それに、お姉さんみたいなすごい人が一緒なら、私にも何か見つかる気がします!」
根拠のない自信。けれど、それは本質を見抜かれた彼女なりの、確信に満ちた言葉だった。
「論理の飛躍が甚だしいですが……まあ、いいでしょう」
ノエルは背を向け、歩き出した。
背後から、「やったー!」という歓声と共に、バタバタと足音が追いかけてくる。
春の風が吹いた。花弁が舞い散る中、止まっていたノエルの時間に、騒がしい秒針が加わった瞬間だった。
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