永遠の魔法使いは、愛の言葉を求めて旅をする

ひより那

第1話 七九年目の広場

第1話 七九年目の広場


 王都の広場には、秋の乾いた風が吹いていた。


 石畳を叩く軍靴の足音も、悲鳴も、爆裂魔法の轟音もない。ただ、着飾った人々の笑い声と、屋台から漂う焼き菓子の甘い匂いが充満している。


 平和だ、とノエルは思った。


 かつてこの場所は、魔王軍の先兵によって瓦礫の山と化していた。焼け焦げた城壁、折り重なる兵士たちの遺体。鼻をつく鉄錆のような血の臭い。


 それらはすべて、半世紀という時間が洗い流してしまったらしい。


 広場の中央には、見上げるほど巨大なブロンズ像が建っている。

 剣を天に掲げ、勇敢な笑みを浮かべる青年。その足元には、無数の花束が供えられていた。色とりどりの花弁が、風に煽られてカサカサと音を立てる。


「……似ていませんね」


 ノエルはぽつりと呟いた。


 視線の先にあるのは、かつて彼女が「勇者」と呼び、この世界の誰もが希望を託した男、レオンの像だ。

 職人の技術は素晴らしいのだろう。筋肉の隆起も、装備の意匠も精巧に再現されている。だが、あの暑苦しいほどに体温を感じさせた笑顔は、冷たい金属では表現できていない。


 ノエルは無表情のまま、マントの下から細い杖を取り出した。杖と言っても、それは折れた剣の柄に、無理やり魔石を埋め込んだ歪な代物だ。

 彼女が小さく指先を振るうと、光の粒がシャボン玉のようにふわりと舞った。それらはブロンズ像にまとわりつくと、表面に付着した埃や鳥の糞を優しく包み込み、弾けて消える。


 生活魔法クリーン


 かつて野営のたびに、泥だらけになったレオンの鎧をきれいにするために使っていた、ささやかな魔法。


「すごい! 見ろよ、ノエル様だ!」

「変わらないわねえ……七九年前とおんなじ、少女のままだわ」


 遠巻きに見ていた市民たちが、感嘆の声を漏らす。


 彼らにとってノエルは、救国の英雄の一人であり、同時に「奇跡の証人」でもあった。魔王討伐の旅に出た四人の英雄のうち、勇者レオンは帰らぬ人となり、聖女マリアは数年前に老衰でこの世を去った。

 残っているのは、年老いたドワーフの戦士と、そして不老の魔法使いである彼女だけ。


 ノエルは人々の視線を意に介さず、きれいになった像を見上げた。


 今日は、勇者レオンの没後七九年祭。

 国を挙げての祝賀ムードの中、ノエルだけが、世界から切り離されたような静寂の中にいた。


 彼女の時間は、あの日から一秒たりとも進んでいないのだ。


 式典の喧騒を離れ、王城の裏手にある庭園へと足を運ぶ。そこには、ひとりの老人がベンチに腰掛けていた。


 真っ白な髭を胸元まで蓄え、分厚い手には杖代わりの戦斧が握られている。かつては岩をも砕いたその腕も、今は枯れ木のように細くなり、肌には無数の染みが浮いていた。


「……ふん。相変わらず、化け物じみて若いままだな、お前は」


 老人が、しわがれた声で言った。


「お久しぶりです、ガストン。お加減は?」

「悪いに決まっておろう。腰は痛むし、酒もドクターストップだ。マリアの婆さんが先に逝っちまってから、説教してくれる奴もいねえ」


 ガストンは自嘲気味に笑い、震える手で懐からスキットルを取り出した。医者に止められているはずの酒を、こっそりとあおる。


 ノエルはそれを咎めなかった。


 ドワーフ族の戦士ガストン。かつての前衛の要。鉄壁の防御で、か弱い魔法使いだったノエルを幾度も守ってくれた仲間。


 しかし今、二人の間には埋めようのない時間の断絶があった。


「ノエルよ」


 一口飲んで、ガストンが重苦しい息を吐く。


「まだ、探しているのか」


 主語のない問い。だが、ノエルにはその意味が痛いほど分かった。


「……効率的な質問ですね。答えを知っているのに尋ねるのですか」

「やめておけと言っているんだ」


 ガストンの声が、低く唸るように響いた。


「レオンは死んだ。あいつは英雄として死に、俺たちがその死を看取った。……あれは、立派な最期だった」

「立派、とはどういう定義ですか?」


 ノエルは首を傾げた。


「心臓が止まり、肉体が腐敗し、意識が消失することの、どこに立派という概念が付与されるのですか。私には理解できません」

「そういう理屈をこねているんじゃねえ!」


 ガストンが声を荒らげる。その拍子に咳き込み、背中を丸めた。


 ノエルは無言で彼に歩み寄り、背中に手を当てて治癒魔法ヒールを行使する。淡い緑色の光が、老いた肺の苦しみを和らげていく。


 その光は温かく、優しい。聖女マリア直伝の、慈愛に満ちた白魔法。だが、ノエルの瞳は凍りついた湖のように冷徹だった。


「……お前は、あいつの言葉に縛られすぎている」


 呼吸を整えたガストンが、哀れむような目でノエルを見た。


「『愛してた』なんてのはな、遺されるお前への……ただの祈りだ。深い意味なんざねえよ。幸せになってくれ、忘れてくれ、そういう類いの綺麗な嘘だ」

「嘘、ですか」

「そうだ。だからお前も、もう自分の時間を生きろ。こんな呪われた身体でも……生きていりゃあ、何か良いことだってあるはずだ」


 ノエルは自分の首筋に触れた。包帯の下にある、どす黒い痣。魔王の返り血が生んだ呪いの刻印。


 それが熱を持って脈打つのを感じる。


「ガストン。あなたの推論には客観的な証拠がありません」


 ノエルは淡々と言葉を紡いだ。


「レオンは嘘をつくとき、必ず右の眉を少し上げる癖がありました。ですが、あの時……彼は真っ直ぐに私を見ていました」


 脳裏に蘇る、鮮烈な赤と黒の記憶。


 崩れ落ちる魔王。その下敷きになり、腹部を貫かれたレオン。大量の血が流れ出し、ノエルの白いローブを染め上げていく。治癒魔法でも塞がらない傷口。消えていく命の灯火。


 その最期に、彼は血の泡を吐きながら、確かに言ったのだ。


 ――愛してた。


「私は、その言葉の定義を知りません。辞書にある『特定の対象を好ましく思う感情』という説明では、あの時の彼の表情と一致しないのです」

「だからって……!」

「分からないなら、聞くのが最も効率的です」


 ノエルはガストンに背を向けた。


 背中に風を受ける。赤色のマントが大きくはためいた。

 それはかつてレオンが愛用していたマントだ。彼の身長に合わせて作られたそれは、小柄なノエルには大きすぎて、裾が地面を引きずっている。


 まるで、死者の影を引きずって歩いているかのように。


「本人がいないなら、呼び戻せばいい。魂を定着させ、肉体を再構成し、思考回路を復元する。……理論上は可能です」

「……それは禁忌だ、ノエル。魔法使いのお前が一番よく分かっているはずだろう。死者を弄ぶのは、魔族の所業だ」

「魔族の魔法だろうと、使えるならリソースとして活用します」


 ノエルは歩き出した。


 もう振り返らなかった。これ以上話しても、並行線だと理解していたからだ。


 ガストンは止めなかった。いや、老いた彼にはもう、彼女を止める力など残っていないのかもしれない。


「……あいつは、悲しむぞ」


 背後から投げかけられた言葉も、風にかき消されていく。


 悲しむ。


 その感情すら、ノエルにはまだ理解できていない未知の領域だった。


 王都を出ると、空気が少し冷たくなった気がした。街道沿いにはススキが広がり、夕陽を浴びて黄金色に輝いている。


 ノエルは懐から一冊の手帳を取り出した。ボロボロになった革表紙。それは、亡き聖女マリアが遺した日記帳だ。


 その最後のページに、震える文字で記された走り書きがある。


『北の果て。魂の眠る地。そこに死者と邂逅する術があるという伝承を、古い文献で見つけました。でも、ノエル。どうかこのページを、あなたが破り捨ててくれることを願います』


 ノエルはページを破らなかった。代わりに、丁寧に栞を挟み、懐へと戻す。


 彼女の指先には、微かな魔力の残滓がまとわりついていた。


 先ほどガストンに施した《ヒール》のような、清浄な光ではない。

 指先の爪の間から滲み出るような、コールタールを煮詰めたような黒い靄。


 ――死者蘇生。


 世界の理を逆流させる、神への反逆。その手がかりが、北にある。


「行きましょう、レオン」


 ノエルは誰に言うでもなく呟き、大きすぎるマントを翻した。

 その姿は、かつて世界を救った英雄の面影を残しながらも、どこか危うく、どこか禍々しい「何か」へと変貌しつつあった。


 終わりのない旅が、また始まる。今度は世界を救うためではなく、たった一つの言葉の意味を知るために。



===

※七九年祭……この世界では、永久を意味する「九」という数字を神格化しており、完全を意味する「七」と組み合わせた『七九』は特別な数字でなのです。

 七九年後は、大きな節目となるため、様々な出来事に対する、お祭りを開催する習わしがあります。

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