エピローグ「朝の光」

すべての写真には、撮影された時間が刻まれる。

けれど、その写真が語る物語は、その瞬間だけでは終わらない。

光と影が交わる一枚の写真は、過去への窓であり、未来への扉でもある。

そして時に、何度も見返す写真の中に、自分自身の成長を見出すことができる。


久遠木の朝は、いつも霧で始まる。


鈴蘭が咲き誇る五月の朝、ハシヅメ写真館の裏庭に、ルカは一人で立っていた。早朝の光が霧を透かし、彼女の金色の瞳を優しく照らしている。白い小袖の袖口が風にわずかに揺れる。花々の間から、父が好んだ鳥の囀りが聞こえてくる。鈴蘭の甘い香りと湿った土の匂いが混ざり合い、彼女の感覚を目覚めさせる。


「準備はできた?」


振り返ると、蓮が立っていた。白いシャツに黒のベストという、今では馴染みとなった姿。彼の手には古いカメラが握られている。結婚を機に風見から橋爪の姓を継いだ蓮は、ルカと共に写真館の新たな歴史を刻んでいた。


「ええ」


二人は並んで歩き始めた。裏庭から続く小道を抜け、影向稲荷への近道を行く。チクワも彼らに付き従い、時折前を走って草むらの様子を確かめては戻ってくる。猫の白黒の毛並みは朝の光を受けて青く輝き、かつてないほど生き生きとしていた。チクワの金色の瞳が、写し世の気配を察知するかのように、時折強く光る。


「彼女たち、今日は来ないの?」ルカが尋ねた。


「朝の儀式には参加せず、自分たちの時間を過ごしているみたいだよ」蓮が笑いながら答える。「子育ては大変だからね」


数ヶ月前、チクワは裏山で一匹の白い母猫と三匹の子猫を連れて帰ってきた。写し世の気配を感じるその猫たちは、チクワが選んだ家族だった。特に白猫のユキは、チクワとはまるで昔からの仲間のように寄り添い、子猫たちも今では写真館の人気者となっていた。金色の瞳を持つ子猫のひとりは、すでに写し世の存在を見る力を示し始めていた。「チクワの子猫たちは町の記憶を守る新たな絆になるだろう」とクロミカゲは言っていた。次の世代の写し世の守護者として、チクワの遺志を継ぐ準備をしているようだった。


「チクワが家族を見つけたとき、私たちより先に親になるなんて思わなかったわ」ルカが優しく微笑んだ。


「そうだね」蓮も笑顔で答えた。「でも、いい予行練習になっているよ」


彼らは互いを見つめ、言葉にならないものを共有した。二人が子どもを持つことを考え始めているという事実は、ごく親しい人々にだけ伝えていた。「科学では測れない命だけど、ルカとなら…」と蓮はよく言っていた。科学と神秘を子に伝える夢を抱きながら。


「でも、あなたの祖父のように、子供が科学と写し世の狭間で苦しむことはないの?」ルカは時折そんな疑問を口にすることがあった。


「僕の祖父は記憶の海に溺れたけれど、それは彼が一人で探求を続けたからだ」蓮は穏やかに答えた。「僕たちは違う。二人で支え合えば、子供もきっと両方の世界の良さを知ることができる」


「今日は特別な日ね」


「ええ、とても」


久遠木に戻ってから二年。ルカと蓮は共に写真館を営み、人々の記憶に寄り添い続けてきた。彼らは「魂写真館」と名前を変え、人と記憶の魂を写す場所という意味を込めたのだ。そして今日は、彼らにとって特別な意味を持つ日だった。


影向稲荷に到着すると、静江が既に境内で彼らを待っていた。老婆は年を重ねても背筋が伸びており、一年中ではなく月に一度ほど写真館を訪れるようになっていた。彼女の周りには紫のオーラが波打ち、古い時代からの知恵が宿っているのが見える。


「おはよう、二人とも」


「おはようございます、静江さん」


静江は境内を見渡し、満足げな表情を浮かべた。「私の祖母も巫女だったころ、この神社は記憶の結び目だったのよ。そして今また、その役割を取り戻している。奥宮は時の狭間の結節点なのだから」


ルカはその言葉に頷いた。影向稲荷は今、単なる神社ではなく、記憶と写し世の物語が交わる場所となっていた。遠くから時間の軋むような音が聞こえ、境内の空気を震わせている。ルカの耳には、過去の祈りの声や笑い声が微かに反響していた。影向稲荷の鳥居をくぐると巫女の力が強まる感覚がある。


境内には他にも何人かが集まっていた。神主、そして町の数家族。みな静かに彼らの到着を待っている。ルカは群衆の中に中島さんの姿を見つけ、小さく会釈を交わした。写祓から半年、彼女の表情には穏やかな光が戻っていた。


「始めましょうか」


ルカが頷くと、蓮はカメラを設置し始めた。三脚の上に据えられたそれは、二人が共同で作り上げた特別なカメラ。写し世の映像も捉えられる、特殊なレンズを持つ「夢写機」だった。それは魂写機に六つの欠片の力を組み込んだ特殊レンズを持ち、科学と神秘の融合を体現していた。


「夢写機は魂写機から進化した私たちの新しい創造よ」とルカは以前、町民に説明していた。「蓮の科学と私の巫女の力を融合させたもので、記憶をより鮮明に定着させることができるの」


夢写機を調整しながら、蓮は小さな測定器も取り出した。「今日は特に記憶の波動が強い。祖父の記録によれば、五月の朔日は写し世と現世の境界が最も薄くなる日なんです」彼は一瞬考え込むように目を伏せた。「祖父は科学で現象を測ろうとしたけど、僕は…違う形でこの神秘を理解したいんだ。ルカとの結婚で祖父の夢に新たな意味を見出したから」


「皆さん、位置についてください」


神主の合図で、参加者たちが本殿の前に集まる。ルカと蓮もその中に加わった。カメラはタイマーで動くよう設定されている。奥宮には九つの光の柱が立つ参道が浮かび上がり、神秘性を増していた。


「今日という日が来るとは…」


静江が感慨深げに呟いた。


今日は二つの記念日が重なっていた。ルカとクロが初めて出会った日から三年目。そして、ルカと蓮が結婚を誓った日から一年目。参道の光の柱が彼らの決意に応えるかのように輝きを増す。


「紐を引いてください」


神主の声に応じて、若い巫女がカメラのシャッター紐を引いた。カウントダウンが始まる。


夢写機が微かに振動し始め、レンズが青く輝いた。レンズが巫女の力で写し世の光を制御し、記憶を結ぶ。六つの欠片の力が夢写機の力を強化している。ルカは本能的にその変化を感じ取った。「写し世が揺れている…私の心で記憶を繋ぐわ」と小さく呟く。そのとき、心の奥でチヨの声が響いたように感じた。「大丈夫よ、ルカ。すべてはうまくいく」遠くで時間の軋む音が強まり、彼女の耳を震わせた。温かな風のように体を包む感覚がある。


その間、ルカは写真館に戻ってからの日々を思い返していた。最初は仕事上の関係だった蓮との絆が、徐々に深まっていったこと。彼の真摯さと誠実さに心を開いていったこと。そして、彼が彼女の二面性—現世の人間としてのルカと、写し世の巫女としてのルカ—を全て受け入れてくれたこと。


蓮との日々は、彼女に新しい記憶を紡ぐ喜びを教えてくれた。彼の手を握る温かさ、夜遅くまで写し世について議論する知的な興奮、朝食の準備を共にする日常の安らぎ。そのすべてが、彼女の中で光り輝く新たな記憶の糸となっていった。「記憶は光と影で紡がれる」という静江の言葉を、ルカは身をもって理解していた。


「私が『魂写真館』に名前を変えようと提案したとき、あなたはすぐに賛成してくれたわね」ルカはある夜、蓮にそう言った。


「魂を写すという意味は、科学の言葉で表せないけれど、確かに存在するものだからね」蓮は優しく答えた。「祖父が探した『記憶の波紋』も、きっと同じものを指していたんだ」


「三、二、一…」


シャッターが切れる瞬間、クロミカゲの姿が参加者たちの後ろに現れた。彼らは今では「守護神」として町の人々に受け入れられ、特別な日にだけ姿を現すようになっていた。「ルカの夢写機が私の存在を現世に繋ぐ」と彼は説明していた。彼らの青白い姿が境内の空気を揺らし、時間の波紋が広がる。クロミカゲの右目の紋様が強く輝き、チヨの愛が宿るその目に、温かな光が宿っていた。チクワが低く唸り、金色の瞳を光らせながら足下の光の筋に触れた。その光がカメラのレンズに向かって伸び、写真に特別な輝きを添えるように見えた。夢写機の光が過去と未来のビジョンを空中に投影し、参加者たちに温かな安心感を与える。


カシャリ。


閃光が走り、神社全体が一瞬、銀色に輝いた。シャッター音に記憶の波紋の響きが重なり、時間が一瞬止まったように感じられた。写真には、笑顔の人々と、その後ろに立つクロミカゲの姿、中央で手を繋ぐルカと蓮の姿、そしてチクワの放つ金色のオーラが写り込む。夢写機の写真が光と影の調和を視覚化し、テーマの集大成となる。写し世と現世が交わる瞬間を捉えた、まさに「記憶の祝福」にふさわしい一枚になるだろう。


「撮れました」


巫女が告げると、参加者たちは自然と拍手した。これは単なる記念写真ではなく、影向稲荷の新たな伝統となりつつある「記憶の祝福」の儀式だった。「写し世」の力が「写祓」だけでなく「祝福の光」として働き、町に新たな絆を紡ぐ。


「記憶の祝福は町の未来を紡ぐ儀式です」とルカは町民に語っていた。「私たち一人一人の記憶が、この町全体の魂を形作っているのです」


儀式が終わり、人々が三々五々と帰り始める中、ルカ、蓮、静江、そしてクロミカゲは本殿の裏手に集まった。


「順調そうだな」


クロミカゲが言った。彼らの姿は通常よりも鮮明に見え、ほぼ実体を持っているようだった。時折、九つの尾の影が彼らの後ろに映り、神性を感じさせる。


「ええ」ルカは微笑んだ。「写真館も、町も、私たちも」


「魂写真館、評判ですからね」


橋爪蓮が少し照れながら言った。「科学と神秘を融合させた写真館として、祖父の夢も実現できている気がします」


「それで…」静江が口を開いた。「例の話は進んでいるのかい?」


ルカと蓮は顔を見合わせ、わずかに頬を赤らめた。


「はい、少しずつ…」


蓮が答えた。彼らが子どもを持つことを考え始めていることは、ごく親しい人々にだけ伝えていた。「科学では測れない命だけど、ルカとなら…」彼は言葉を詰まらせ、彼女の手を強く握った。科学と神秘を子に伝える夢を胸に、彼は彼女の目をまっすぐ見つめた。


「勇気のいる決断だね」静江が言った。「特にお前のような存在には」


ルカは頷いた。写し世と現世の狭間に生きる影写りの巫女としての彼女が、子どもを持つことには特別な意味があった。未知の要素も多い。


「魂写真館は記憶を永遠に紡ぐ場所」静江が柔らかな声で続けた。「あなたの子もまた、記憶の光を継ぐことになるでしょう。次の世代への記憶の犠牲となるのです」


「ルカの子は写し世と現世の調和を担う新たな巫女となる可能性がある」と静江は静かに続けた。「巫女の血は写し世の光に共鳴する強い魂を持つ者に宿り、影向稲荷がその魂を選ぶのよ。そうして記憶を守る使命を継いでいくのです」


クロミカゲが一歩前に進み、ルカの目をまっすぐ見つめた。「チヨの心はお前の子を案じている」その声は優しく、二重音が調和していた。「新たな命は、私たちの光となる。ルカの家族を守ることでチヨの愛を全うする」


「でも…覚悟はできています」


彼女は決意を込めて言った。「チヨの遺志を継ぐ覚悟です」


「私の中の姉さんも…」彼女はクロミカゲを見た。「賛成してくれています」


「あなたと姉さんの愛を、子に伝えていきたい」ルカは微笑んだ。彼女の金色の瞳に、チヨの面影が宿っているかのようだった。


「ああ」クロミカゲは頷いた。「新たな命には、新たな記憶が宿る。それは祝福すべきことだ」静江が「心、霊、封印の欠片は次の世代の巫女に委ねられる」と付け加えた。「心の欠片は感情の絆を、霊の欠片は魂の調和を、封印の欠片は写し世の均衡を司る。霧梁の彼方に次の旅の鍵が眠っている」


神社を後にする途中、ルカは一人、奥宮への小道に立ち寄った。今では一般の人も立ち入れるようになったこの場所は、彼女の人生が大きく変わった場所だった。奥宮の鏡が静かに光り、時間の軋むような音が微かに響いていた。奥宮が「次の欠片への道を示す結節点」として彼女を見守っているようだった。


「姉さん…見ててくれる?」


ルカの胸にチヨの笑顔が浮かび、感情が溢れてきた。父のカメラを握る手、母の優しい笑顔が霧に浮かび、胸が締め付けられた。「子が生まれたら…姉さん、喜ぶよね?」彼女の金色の瞳に涙が滲み、夢写機で捉えたかったほどの美しい光景だった。


「新たな命を、姉さんの愛で守る。そして、あなたの記憶も伝えていくよ」


ルカの問いかけに答えるように、柔らかな風が彼女の髪を撫でた。それが彼女の気のせいでないことは、金色の瞳に映る光の筋から分かった。チヨの笑い声が風に乗って、彼女の耳を震わせた。


「光と影のバランスを、私の子も知るのね」彼女は静かに付け加えた。「私が守る記憶と、蓮が紡ぐ科学。その間で成長して、自分自身の道を見つけるのでしょう」


「ルカ」突然クロミカゲの声が聞こえた。彼の姿は見えないが、風のようにそこに存在していた。「残りの欠片を集める旅は、まだ終わっていない。心の欠片、霊の欠片、封印の欠片—それらは次世代の巫女のために、霧梁県の奥深くに眠っている」


「わかっています」ルカは風に向かって答えた。「いつか、私の子がその旅に出る日が来るかもしれません。その時は…私が道しるべとなります」


「写し世と現世の調和を保つ旅は、世代を超えて続いていく」クロミカゲの声が静かに響いた。「お前の代で終わりではない。新たな始まりなのだ」


写真館に戻る道すがら、蓮がルカの手を握った。


「どうしたの?」


「いや…ただ、ここまで来られたことが不思議で」


蓮の瞳には、真摯な思いが宿っていた。


「僕は普通の人間。写し世のことも、夢写師のことも、最初は全く理解できなかった。けれど…」


「私も同じよ」


ルカが彼の言葉を引き取った。


「感情を封じ込め、他者との繋がりを恐れていた。でも今は…」


彼女は久遠木の町を見渡した。朝の光に照らされた家々、開き始めた店、通学する子どもたち。すべてが彼女の目には鮮やかな色彩で映っていた。遠くで時間を測る鐘の音が響き、彼女の耳を震わせた。


「写せるものが増えたわ。そして、感じるものも」


「静江さんの言うとおり、私たちの子も、この町の光を継いでいくのね」ルカは静かに言った。「記憶の祝福を受け継いで」


ふと、ルカは立ち止まった。赤い屋根の家々、公園で遊ぶ子どもたち、何かを懐かしく思い出させる風景が一瞬、脳裏をよぎったのだ。夕霧村で失った記憶の断片。両親が暮らした故郷の風景。それは消え去ったが、どこか温かな余韻を心に残していった。


「何かを思い出したの?」蓮が尋ねた。


「ううん…ただ、懐かしい気持ちになっただけ。たぶん、私が失った記憶の欠片が、ふとよみがえったのかも」


写真館に着くと、既に日課となった朝の準備が待っていた。今日の予約は多く、記念写真二件と写祓一件。その合間に、奥宮で撮影した写真の現像も行う必要がある。


夕霧村で失った記憶の欠片—知らない町の夕暮れの風景—はまだ完全には戻っていないが、それはもはや重要ではなかった。失ったものより、得たものの方がずっと大きいことを、ルカは心から実感していた。父の優しい手の感触、母の温かな笑顔の断片が時折脳裏をよぎるが、それすらも今は彼女の一部として受け入れていた。残りの欠片はきっと写し世が導いてくれる。そして、もしその時が来たら、彼女も蓮も、そして彼らの子も、その旅に踏み出す覚悟があった。


「さあ、始めましょうか」


蓮が扉を開け、写真館の看板を「OPEN」に変えた。


「魂写真館、本日も開店です」


その言葉に、ルカは心から笑顔を見せた。かつて感情を抑え込んでいた少女は、今や自分の心に正直に生きる女性へと成長していた。


チクワが窓辺で日向ぼっこを始め、子猫たちが足元で遊び始めた。白猫のユキはチクワの隣で、子猫たちを見守るように寝そべっている。金色の瞳を持つ子猫は、ルカに向かって小さく鳴き、その瞳に一瞬、写し世の光が宿った。クロミカゲは風となって町に溶け込んでいった。写真館には最初の客が訪れ、新たな一日が始まる。


「今日のお客様は、どんな記憶を抱えているのかしら」ルカは金色の瞳を輝かせながら、優しく微笑んだ。「その記憶を、私たちの写真で祝福しましょう」


蓮は彼女の手を握り、共に新しい来客を迎えた。二人の間には、これからも紡いでいく無数の記憶が待っていた。そして、いつか生まれてくる子供たちが継いでいく、新たな記憶の物語が。


薄明かりの現像室で、二つの魂が交差し、記憶が写真に定着されていく。それは彼らの旅の続きであり、終わりでもあった。


けれど物語は、写真のように永遠に続いていく。光と影のバランスが織りなす、新たな一枚として。

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夢写師と黒い狐の廃墟録 ―光と影の記憶譚―(旧版) 大西さん @2012apocalypsis

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