第8話
翌朝、潮風と共に目を覚ました俺は、早くも新たな“鼓動”を感じていた。
それは海の呼吸であり、風のざわめきであり、そして――世界のどこかで始まる異変の兆し。
小屋の外へ出ると、シーナがすでに海を見つめていた。
朝日が彼女の髪を照らし、まるで光のベールを纏っているかのようだった。
「おはよう、シーナ」
「おはようございます、レン様。……今日も、海は穏やかです」
昨日の戦いが嘘のように、波は穏やかだった。
だが、俺はその奥に、わずかな違和感を感じ取っていた。
「……何か、来るな」
「感じますか?」
シーナはすぐに察したように頷いた。
「昨日の魔魚たち。あれが偶然現れたとは思えません。
きっと、“誰か”が意図的に送り込んだ。そう感じています」
「まるで、探りを入れてきたみたいに……この島の力を計ってた」
海を越えてくる情報は、言葉ではなく“潮”で届く。
波の変化、風の動き、空の色。
俺の《潮の眼》は、それを正確に“読んで”くれる。
そして今、その“潮の語り”が言っている。
――来訪者あり。
――敵か味方か、未知数。
――海路の東より接近中。
「小舟が、一艘。……いや、二艘……三、いや、五艘。速度は一定。
風任せじゃない、意図的に操られてる。しかも直線で進んでる」
俺の言葉に、シーナの表情が引き締まる。
「どこの島の船でしょうか?」
「分からない。帆に紋章はない。海賊か、もしくは……」
「外海の民……?」
シーナの声がかすかに震えた。
それは、畏れのようであり、警戒のようであり――同時に、懐かしさも滲んでいた。
「島の者ではない者たちが、この“波の目”にやってくることなど、百年ぶりです」
「じゃあ、俺が来たのと同じくらい珍しいってことか」
「……ええ。でも、あなたは“選ばれた者”として迎えられた。
彼らは、果たしてどうでしょうか」
空が明るくなる。
海の色が一段と鮮やかになり、視界の先、帆の影が微かに現れ始めた。
船は、確実に近づいている。
そして、俺の中の“波”が言っていた。
――この出会いは、新たな試練のはじまり。
俺は、右手の紋章に触れた。
その船団は、見れば見るほど異質だった。
島々を渡り歩く通常の交易船とは明らかに異なり、船体は黒く塗られ、帆は風を避けるように低く設計されている。
速度を重視する船ではない。かといって、漁や交易を目的とした造りでもない。
その異様さに、俺の中の警戒が強まっていく。
「やっぱり、普通の船じゃないな……海賊か?」
「いえ……もっと洗練されています。私の故郷、ルウ=ゼン族の外縁部が使っていた“影舟”に似ています」
「ルウ=ゼン……?」
俺が首を傾げると、シーナは微かに目を伏せた。
「海の東、はるか彼方に存在する、浮遊群島国家。
私の母は、そこの血を引いていました。
そこでは、海と契約する術を“神喚(しんかん)”と呼び、巫女は風と潮を直接操る存在とされていたのです」
「……つまり、あの船は“海を知る者たち”のものかもしれないってことか」
「ええ。ただし、彼らの姿を見るのは、私にとっても初めてのことです。
母はかつてこう語っていました。『東の海には、波を操りし者と波を支配せんとする者がいる』と」
「支配、か……」
それは、俺の感覚とも一致していた。
昨日の魔魚。
あれは自然のものではなかった。
あの“力”は、まさに“支配”だった。
「――来た」
海上に五艘の船が並び、そのうちの一隻がこちらに向けて進路を変える。
帆がたたまれ、櫂による操船。
波の音が、わずかに変わる。
その船の先頭に立っていたのは、ひとりの男だった。
白と青の儀礼衣を纏い、長く流れる銀髪を背にたなびかせている。
肌は浅く焼け、眼光は鋭く、それでいて威圧感は一切ない。
むしろ、なさすぎて、逆に不気味だった。
彼は、手を広げて挨拶の仕草をすると、落ち着いた声で言った。
「この地の“潮の巫女”よ。そして、新たなる“波の契約者”よ。
我らは、東の縁より風に導かれし、シュ=レウの使い」
「シュ=レウ……!」
シーナの声が震える。
「知ってるのか?」
「シュ=レウとは、ルウ=ゼンの中枢にあたる海の民の中でも、最も古く、最も強い“海の意思”と繋がる一族……」
男は、船から降りることなく、なおも語りかけてくる。
「海は今、揺れている。
波は乱れ、風は逆巻き、魚は怯え、龍は目を覚ました。
我らは、“秩序”を取り戻すために来た」
その言葉に、俺は眉をひそめた。
「秩序ってのは……どういう意味だ?」
「波を制すこと。潮を鎮めること。
乱れた契約を正し、真なる“海の均衡”をもたらすこと――それが我らの務め」
言葉は整っているが、違和感があった。
“正す”という言葉の裏に、“従わせる”という意志が見える。
「俺たちは……そんなもん、頼んじゃいない」
「頼まれて動くわけではない。
波が我らを選んだ。おまえもまた、波に選ばれし者であろう?」
銀髪の男の視線が、俺に向く。
ぞくりと、背筋が凍った。
あれは、ただの目じゃない。
海を、そして人を見通す、深淵のような眼だ。
「名を、教えよう。私はレク・アハン。
“律潮の使い”にして、シュ=レウの使者。
そして、かつて“海龍と最初に契約した一族”の血を引く者」
その名前に、俺の右手が反応した。
波の紋章が、じわりと熱を帯びる。
「……セラシオンが反応してる……」
「当然だ。かの海龍が初めて地上に力を与えた時、その契約を結んだのが、我らの始祖なのだから」
その言葉に、シーナが息を呑んだ。
「レン様……彼らは、“始まりの契約者”たちです。
ですが、その力を“統べる”側に傾けた一派……それが、シュ=レウ」
“選ばれる”者と、“支配する”者。
同じ契約者でも、そこには決定的な違いがある。
「俺は……おまえたちのやり方には従えない」
俺は船の縁に立ち、レクの方をまっすぐに見返した。
レクは微笑を浮かべた。
「ならば見せよ。おまえの波の在り方を。
世界は、静かなる海を望んでいる――混沌を望んでいるのではない」
そして、五艘の船は再びゆっくりと動き出し、島の外縁へと散開していった。
波がざわめく。
風が、告げる。
――この平穏は、一時のものだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます