第7話
海面が破裂するように跳ね上がり、無数の飛沫が空を裂いた。
水柱の中心から、ぬるりと現れたのは――
「でかい……!」
鋭い鰭。甲殻のような装甲に覆われた巨体。
口には無数の牙、目は濁りきった黄色。
それは、ただの魔魚ではなかった。
《潮の眼》が即座に解析結果を返してくる。
《海域外来種:クローグ・サーペント種》
《異常成長個体。原因不明。分類:凶級》
《推定全長:17メートル。水流操縦反応:高。視覚感知:鈍》
《危険度:単独討伐、極めて困難》
「まじかよ……!」
「レン様、離れて――!」
シーナの叫びと同時、船体が大きく傾ぐ。
巨大な尾が水面を打ち、波が壁のように迫ってきた。
「《風の抱擁》、再展開ッ!」
俺は即座に風を巻き起こし、帆に力を与える。
船体が横滑りするように波をかわし、辛うじて転覆を免れた。
「くっ……こいつ、狙ってる……完全に、こっちの位置、読んでる!」
「先ほどの逆流、あれはこの魔魚が発していた潮の操縦では?」
「……チートかよ、こいつ」
だが、逃げられない。
島の方向は、この海域のすぐ向こう。
ここで食い止めなければ、島が呑まれる。
「行くぞ……やるしかねえ!」
俺は立ち上がり、右手の紋章を前に掲げた。
セラシオンの力を、今こそ解き放つ。
「――《契約加護・海龍の咆哮》!」
海が震えた。
空気が裂けるような轟音が、俺の身体を通じて発せられる。
その声は、ただの音ではない。
“威圧”そのものだった。
魔魚の動きが一瞬止まる。
「今だ、シーナ!」
「《封潮の結界、展開――》!」
彼女が詠唱と共に両手を掲げると、船の周囲に青白い膜が広がった。
海水が膜の内側で静まり、魔魚の動きが鈍る。
「封じ込めた……でも、長くはもちません!」
「十分だ!」
俺は跳び上がるように船縁に立ち、右手を振りかざした。
「――《潮裂きの刃》!」
手から生じた水の刃が、風をまとい、一直線に魔魚の目を狙う。
ヒュゥン!
風を切る音のあと、刃は正確に目を貫いた。
「ギシャァァアアアアアア!!」
魔魚が悲鳴のような咆哮を上げ、海中に沈んでいく。
海面に大量の泡が浮かび、しばらくの間、何も起こらなかった。
――そして。
波が、穏やかになった。
風が止まった。
波も、嘘のように穏やかになっている。
船の上で息を呑み、俺は海を見つめた。
巨大な魔魚の影は、すでに海中から消えていた。
「……倒したのか?」
誰にともなく呟いた言葉に、シーナがそっと頷いた。
「はい。目を潰されたことで、方向感覚を喪失したのでしょう。
この海域から離れると思われます。……いまの一撃、見事でした」
「いや、あれは……俺一人じゃ、無理だった」
咄嗟に発動した《海龍の咆哮》。
その威力と制圧力は、間違いなくセラシオンの加護あってのものだった。
そして、それを封じ込めるためのシーナの結界がなければ、刃は通らなかった。
「力を貸してくれて、ありがとう」
俺がそう言うと、シーナは小さく微笑んだ。
「礼には及びません。
私たちは“この海”に生きる者として、当然のことをしただけです」
その言葉が、胸に染みた。
そうだ。
俺は今、役に立てたんだ。
自分の力で、誰かを守ったんだ。
“無価値”だと笑われていた俺が。
何も持たないと言われていた俺が。
海が、それを覆してくれた。
「……これが、“選ばれた”ってことなのか」
誰にも届かないような小さな声でそう言うと、
海面が光を放った。
まるで、肯定するように。
船は再び、島へと向かって進み始めた。
帰りの航路、潮はなめらかだった。
あれほど乱れていた海流も、いまは嘘のように整っている。
「魔魚が起こしていた逆流が収まったようですね。
海も、ようやく呼吸を取り戻したのでしょう」
シーナの声が、どこか安堵に満ちていた。
俺も同じだった。
強敵を前にして、恐怖がなかったわけじゃない。
むしろ、内心では足が震えていたくらいだ。
けれど、それでも、逃げなかった。
今までの俺なら、絶対に無理だった。
あのとき、小舟で漂っていた俺に、いまの俺を見せてやりたい。
そう思った。
「お疲れ様でした、レン様。
今日の出来事は、島の歴史に残るでしょう」
「やめてくれよ、そういうのは……」
照れ臭くて、思わずそっぽを向いた。
けれどその頬が熱を持っているのは、自分でも分かっていた。
……俺にも、できるんだな。
そう、心の底から思えた。
*
ミリアナの島に戻ったとき、空には赤みが差していた。
陽が西の空に沈みかけ、水平線が茜色に染まっている。
俺たちは小舟を桟橋に繋ぎ、無言のまま海を見ていた。
「夕陽、綺麗だな」
自然と出た言葉に、シーナが隣で小さく頷く。
「ええ……この島の海は、普段はとても穏やかなんです。
こうして、夕陽を見ていると、海が祝福してくれているように思えて」
「……あの魔魚が現れたってのに?」
「ええ。それでも、この海は、私たちの故郷ですから」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
捨てられたと思っていた。
何の価値もないと、そう思い込んでいた。
けれど、今の俺は、誰かと並んで同じ空を見ている。
「レン様。あなたは、この島に来たことで、たくさんのことを変えました。
たとえあなたがそう思っていなくても、海は、もう違って見えるでしょう?」
――違う。確かに、違って見える。
波の音が優しく聞こえる。
風が、どこか頼もしい。
そして、世界が、少しだけ近くなった気がする。
「俺、ここに来てよかったよ。ありがとうな、シーナ」
そう言うと、彼女はわずかに微笑んで、首を横に振った。
「いいえ。礼を言うのは、こちらのほうです。
あなたが来てくれたことに、私は救われましたから」
それ以上、言葉は要らなかった。
沈みゆく陽を見ながら、しばらく、俺たちはそのまま並んで座っていた。
夜が更ける頃、再びあの小屋に戻った。
波は静かで、星の光が海面に反射していた。
今日、確かに“旅が始まった”。
そして、俺にはもう、戻る場所がないわけじゃない。
少なくとも、ここに、俺の足跡は刻まれた。
明日は、また別の潮が俺を導くだろう。
この先に、どんな島があり、どんな人々が待っているのかは分からない。
けれど――
「俺は、もう逃げない」
誓いを胸に、俺は目を閉じた。
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