第4話

 少女は、俺の名を呼びもしないのに、何かを知っているような眼差しで、歩み寄ってきた。


 その足取りはまるで波のように、柔らかく、そして規則正しい。


「ここは“ミリアナの島”。古より、海の声を受け継ぐ者たちが通う場所。

 あなたのような“龍契者”が訪れるのは、百年ぶりです」


「……俺のこと、知ってるのか?」


「はい。……いえ、“知っていた”というべきでしょうか」


 その答えは、意味深すぎて、返す言葉が見つからなかった。


 だが、彼女のまなざしには敵意も好奇心もない。

 ただ、信頼――いや、もっと深い“理解”のようなものが宿っていた。


「名乗りが遅れました。私はシーナ・ウルア。この島の巫女見習いです」


 彼女は胸に手を当て、丁寧に頭を下げた。


 その所作は美しかった。

 儀礼的ではあるが、どこか優しさが滲んでいて、不思議と緊張がほぐれていくのを感じた。


「俺は……レン・タカナ。今日、初めてこの島に着いたばかりだ」


 そう言いながら、自然と礼を返していた。


 まるで、潮の流れに従って身体が動いたようだった。


「あなたは、もう“潮の印”を得ているのですね」


 シーナは、俺の右手にある紋様を一瞥しただけで、そう言った。


 この紋章――波の契約の証。

 まだ俺自身でも、その意味をすべて理解しているわけじゃない。


「俺……海に流されて、死にかけて……そしたら、セラシオンって名乗る海龍が現れて……契約を……」


 言葉にしていると、自分でも信じがたい体験だと思う。


 けれど、シーナは微笑を浮かべて、すべてを肯定するように頷いた。


「海は、すべてを見ています。そして、必要なときに、必要な者を選ぶのです。

 あなたが選ばれたのは、偶然ではありません」


「……でも、俺はただ、追い出されただけなんだ。

 誰にも期待されてなくて……ギルドの仲間にも邪魔者扱いされて……」


 声が自然と小さくなる。


 こんなこと、誰かに語るつもりなんてなかった。

 でも、不思議と、シーナの前では吐き出せた。


 彼女は、俺を否定しなかった。

 ただ、そっと言葉を置くように返した。


「“価値”というのは、誰かに与えられるものではありません。

 それは、あなた自身が“証明”していくものです」


 風が吹いた。

 髪が揺れ、潮の匂いが香る。


 俺の中で、何かが小さく響いた。

 この言葉は、ただの慰めじゃない。

 本気で、そう思ってくれているのがわかる。


「島の奥に、祈りの泉があります。

 まずはそこで、海に感謝を捧げましょう。契約を得た者として」


「……ああ、分かった。案内してくれるか?」


「もちろんです、レン様」


「様は、いらない。俺は、ただの……」


「あなたは“龍契者”です。謙遜されても、私はそうお呼びします」


 柔らかく、でも芯の通った口調だった。

 まるで、すでに俺の存在に“意味”を見いだしてくれているようだった。


 俺は、小さく息を吸って、頷いた。


「じゃあ……案内、頼む」


 シーナの後ろ姿を追いながら、俺は草原の中に踏み出した。


 足元には、小さな白い花が咲き乱れていた。

 風が吹くたび、波のように揺れ、まるで海原を歩いているような錯覚を覚える。


「この島……誰も住んでいないのか?」


「今は、私一人です。元は巫女の里でしたが……海の変化と共に、皆、散っていきました」


「……海の変化?」


 シーナはしばらく黙ったまま歩き続けた。

 だが、やがて一歩、立ち止まり、空を仰ぐように言った。


「この数年、潮の流れが狂い、魚が減り、海の精霊たちの声が届きにくくなりました。

 それは……“何か”が、海の均衡を崩しているからだと、言われています」


 “何か”。


 俺の心に、微かな不安が走った。


 海龍セラシオンが言っていた。

 「波は乱れている」と。


 まさか、それと関係しているのか?


「……それで、“龍契者”が呼ばれたってわけか」


 思わず呟くと、シーナがこちらを振り返る。


「レン様は、いずれ知ることになるでしょう。

 この海界を揺るがす大きな“波”を」


 その言葉に、俺は自然と唾を飲み込んだ。

 まだ、何も分かっていない。


 だけど、この海のどこかで、確かに何かが“動いている”――それは、感じる。


 木々の隙間を抜けた先に、開けた泉があった。


 その水面は驚くほど澄み、空よりも深い青を湛えている。


 泉の縁には、丸く削られた岩があり、儀式のための場であることが一目で分かった。


 シーナは、岩の前に膝をついた。

 俺も、それに倣う。


 泉の中心に、微かに光る柱のようなものがある。


 それが“祈りの焦点”だと、何故か分かった。

 セラシオンの力が、反応しているのがはっきりと感じられた。


「目を閉じ、心を穏やかに……。海に、この旅の始まりを伝えてください」


 シーナの声に従い、俺は目を閉じた。


 波音が耳に届く。

 遠くで、魚が跳ねる音。

 潮の満ち引きの脈動。


 全部が、俺の内側に染み込んでいく。


「……俺は、レン・タカナ。

 波に選ばれた者として……ここに在ることを、伝えます」


 声が、泉に溶けるように消えていく。

 それと同時に、手の甲の紋章が熱を帯びた。


 泉の中心が、ぼうっと青く光る。


 水が、少しだけ波打った。


「……受理されました。海は、あなたを認めました」


 目を開けると、シーナが穏やかに微笑んでいた。


 認められた。

 この海に、この世界に。


 たった今、この旅が“本当に”始まったのだと、そう思えた。

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