第5話
泉の祈りを終え、俺たちは森を抜けて再び海辺へと戻ってきた。
陽は少し傾きかけていて、海面に黄金の光が帯のように伸びている。
「この島、静かだな……」
「ええ。ですが、この静けさは、一時のものです」
シーナの言葉に、俺は眉を寄せた。
「どういう意味だ?」
「この島は、“波の目”と呼ばれる場所。海界の流れの中心にあります。
ここが揺れれば、すべてが波紋のように乱れていく」
「つまり……何かが来るってことか」
「ええ。それは、敵意かもしれないし、運命かもしれません」
風が吹き、彼女の青い髪がなびく。
その表情には微かな緊張があったが、同時にどこか、確かな覚悟も見て取れた。
「レン様、今夜はこの島でお休みください。
海辺にある古い小屋を、寝所として使っていただけます」
「……ありがとう。助かるよ」
俺は素直に礼を言った。
どれだけ力を手に入れても、飯も寝床もなければどうにもならない。
案内された小屋は、意外としっかりしていた。
木造だが屋根もあり、塩風を避けるための布も丁寧に掛けられている。
「明朝、もう一度、海の様子を見に行きます。
そのとき、必要であれば、あなたに協力していただきたいことがあります」
「協力?」
「ええ。島の周囲に、“波の乱れ”が現れてきているのです。
それが、ただの自然現象であればよいのですが……違う気がしています」
俺は頷いた。
何かが、動いている。
それは確かに、海龍セラシオンの言葉とも重なっていた。
「分かった。できる範囲で協力する」
「ありがとうございます。では、今夜はごゆっくりお休みください」
シーナが去り、俺は小屋の中でごろりと横になった。
木の香りと、ほんのり潮を含んだ空気。
そして、遠くから聞こえる波の音。
心地よかった。
いや、本当に――心地よかったのだ。
久しぶりに、自分の“居場所”がある気がした。
誰にも文句を言われず、誰にも否定されず、誰かの役に立てるかもしれないと思える夜。
「……やっと、始まったんだな」
目を閉じたその瞬間、身体の奥底で、波が揺れた。
セラシオンの気配が、まるで俺を包むように、ゆったりと存在していた。
「おまえは、選ばれた」
再び、その声が響いた気がした。
俺は小さく笑った。
「だったら……やってやるさ」
この海で、この力で――俺自身の価値を、証明してやる。
*
夜の海は、穏やかだった。
波が砂を撫でる音だけが、薄闇の中にかすかに響いている。
俺は寝台の上に寝そべりながら、天井を見上げていた。
眠れないわけじゃない。ただ、気持ちが高ぶっていた。
何も持っていなかった俺が――
今では、海龍と契約し、力を得て、誰かに必要とされている。
たった一日で、人生がここまで変わるなんて。
「……明日は、何が起きるんだろうな」
誰に向けるでもない声が、小屋の中に溶けていく。
けれど、それに答えるように、波が一度だけ強く打ち寄せた。
セラシオンの気配はもう感じない。
きっと、深海のどこかで眠っているのだろう。
だけど、俺の手の甲の紋章は、まだわずかに熱を帯びていた。
確かに力がここにあるという証。
それが、今の俺を支えている。
瞼が重くなってきた。
風の音。
波のリズム。
夜の静けさ。
すべてが心地よく、俺はいつしか、深い眠りに落ちていった。
――そして翌朝。
朝陽の光が、小屋の壁の隙間から差し込んできた。
目を開けると、空は澄み渡るような青。
昨日よりも、世界が明るく見えたのは気のせいじゃない。
「よく眠れましたか?」
扉の向こうから聞こえる声に、俺は慌てて身体を起こした。
小屋の前には、今日も変わらぬ様子で立つシーナがいた。
「……ああ、ありがとう。ぐっすりだった」
「それはよかったです。では、早速向かいましょう。
海の様子を確認に行きます。何かが起きているかもしれません」
彼女の声には、わずかな緊張が混ざっていた。
俺はうなずいて、小屋の外に出た。
朝の風は、昨日より少し強い。
海の香りも、わずかに塩辛さを増しているように思えた。
「なんか……波の音、変じゃないか?」
「感じましたか? 昨日より、明らかに潮が重くなっています」
俺は集中し、《潮の眼》を意識した。
視界に、水の流れが浮かび上がる。
そこに――不自然な“濁り”があった。
「これは……」
「西の方角。今までにない、強い逆流です」
海流は、本来この時間、東へ流れるはず。
それが、逆に西から押し寄せてきている。
何かが、来ている。
俺は本能的に、そう感じた。
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