第2話 木漏れ日亭の夜と、微かな違和感
「ただいま戻りました」
僕の常宿「木漏れ日亭」の扉を開けると、木の床がきゅ、と小さな音を立てた。
夕食時にはまだ少し早いのか、ロビー兼食堂になっている空間には、まだお客さんの姿はまばらだ。
「あ、カイト兄! おかえりー!」
カウンターの向こうから、パタパタと軽い足音と共に、宿屋の看板娘のリズさんが顔を出した。少しそばかすのある元気な笑顔が、疲れた心に少しだけ染みる。
「今日もくたくただね? 大丈夫? ほら、座って座って!」
彼女は僕の背中の荷物(といっても今は空の袋だけだ)を気遣うように見て、近くのテーブル席を勧めてくれる。こういう気遣いが本当にありがたい。
「ありがとう、リズさん。大丈夫だよ」
「もー、いっつも大丈夫って言うんだから! ちょっと待っててね、すぐご飯の準備するから!」
そう言うと、彼女はまた厨房の方へ引っ込んでいった。相変わらず元気いっぱいだな。
ほどなくして、厨房からいかつい顔の宿屋の主人、ゴードンさんが出てきた。手にはほかほかと湯気の立つシチューと、山盛りのパンが乗ったお盆を持っている。
「おう、カイトか。飯だ、食え」
どすん、とやや乱暴にお盆をテーブルに置きながら、ゴードンさんはぶっきらぼうに言う。
「ありがとうございます、ゴードンさん」
「残すんじゃねぇぞ。ひょろひょろしてると、ダンジョンで真っ先にくたばるからな」
口は悪いけど、ゴードンさんの料理は本当に美味しい。具だくさんのシチューは栄養満点で、疲れた体にじんわりと染み渡っていく。パンも、外はカリッとしているのに中はふんわりと柔らかい。無心でスプーンを口に運ぶ僕を、ゴードンさんはカウンターの向こうから、腕組みをしてじっと見ている…ような気がする。まあ、いつものことか。
あっという間に皿を空にして、席を立とうとした時だった。
「おい、カイト」
背後から声をかけられた。ザックだ。いつの間にかギルドから戻ってきていたらしい。
「今日の分だ。ありがたく受け取れよ」
彼が僕の手に握らせたのは、数枚の銅貨だった。今日のポーター業務、それも追加分までこなした報酬が、これだけ…?
「…ありがとうございます」
声が、自分でも分かるくらい小さくなった。悔しいとか、悲しいとか、そういう感情よりも先に、諦めの気持ちが湧いてくる。期待なんて、最初からしていなかったじゃないか。
ザックさんは僕の返事も聞かずに、仲間たちと酒盛りを始めたようだ。騒がしい声が食堂に響く。
僕はそっとその場を離れ、自分の部屋がある二階へと階段を上った。
ギシギシと音を立てる古い木の階段。借りている部屋は屋根裏に近い小さな一部屋だ。窓からは隣の家の壁しか見えないけれど、雨風をしのげて、ベッドがあるだけありがたい。
ベッドに腰掛け、先ほどの銅貨を手のひらに広げる。これで明日のパンが買えるかどうか…。ため息が出そうになるのを、ぐっとこらえる。
(…くよくよしてても仕方ない。少しでも、できることをやろう)
気を取り直して、部屋の隅に置いてある、これも安物の訓練用木剣を手に取る。昼間のギルドでの素振りの感触を思い出しながら、ゆっくりと振ってみる。
(あれ…?)
なんだか、昼間よりも体が軽い気がする。剣を振る軌道も、心なしかスムーズなような…。
それに、さっき読んだモンスター図鑑の内容も、やけにはっきりと頭に残っている。ゴブリンの弱点、生息地、行動パターン…まるで写真のように思い出せる。
(疲れてるのかな…それとも、今日のシチューがよっぽど効いたとか?)
そんなはずはない、と思い直す。きっと気のせいだ。僕はただのスキル無し。特別なことなんて起こるはずがない。
それでも、ほんの少しだけ、胸の中に奇妙な感覚が残った。
僕はその正体不明の感覚を振り払うように、木剣を置き、今度は古い魔物の生態に関する本を開いた。ページをめくる指先に、なぜか妙な確信のようなものが宿っている気がした。
明日は、今日よりも少しだけ、強くなれるだろうか。
そんな淡い期待を抱きながら、辺境の街の夜は静かに更けていく。
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