愛しき君

第36話

白金台を出て電車を乗り継ぎ、私が向かったのは最寄の溝の口ではなく新横浜だった。


来るなと言われてしまったけれど、来ずにはいられなかった。


もう見慣れた駅から店までの道を小走りで歩く。


百合桜はまだ明かりが点いていて、お店の電気もついていた。



少しためらったけど意を決して中へ入ると、いらっしゃいませーという声が聞こえた。



「え、椿さん?」



私を見て最初に驚いた顔を見せたのは夏目君だった。


そんな表情をするってことは、もしかしたらこの間の私たちの会話が聞こえていたのかもしれない。


もしくは千幸さんから私のことを聞いたのかも。



「今仕事中ですけど…」


「あ、えっと、じゃあ客として来ました」


「じゃあって…。こちら、どうぞ」



夏目君は客という言葉に諦めたようにカウンターの一番奥の席へ案内してくれた。



閉店まであと1時間。


それまで待つだなんて、本当私はどこまでも重い女だ。


きっと夏目君にも、千幸さんにも呆られてしまう。



「いらっしゃいませ。お通しで…」


「あ…」



カウンターの向こう側から手を伸ばして、私にお通しを出したのは千幸さんだった。


千幸さんは驚いた顔で固まって私を見ていたけれど、すぐに持ち前の接客スマイルで「ご注文は?」と聞いてきた。



「生1つ」


「はい」



千幸さんは淡々と働いていた。


女性客とも男性客とも楽しそうに会話をして、慣れた手つきで魚をさばいて、一品一品を大切に作って…。


本当に尊敬した。



その姿が、本当に素敵だと思った。




私は初めてそんな千幸さんを見たときから、あなたのことを好きになっていたのかもしれない。



私にないものをたくさん持ってる。


私が欲しいものをたくさん持ってる。




あなたを見てもっと頑張らなくちゃって思う一方で、

私が助けて欲しいとき、あなたはいつも助けてくれた。




「っ…」



仕事をするあなたの姿が少し歪む。



ねぇこんなに愛しい人、どうやったら忘れられる?



忘れられるわけないよ。



千幸さんの香りを、

千幸さんの笑顔を、

千幸さんの温もりを、




私はまだ、求めてるの。

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