第32話

顔を横に振って気を取り直し、仕事に集中しようと思ったその時、聞きなれた声に名前を呼ばれた。


振り返るとそこには教頭先生がいた。



「はい、なんでしょう」


「椿先生、今日お時間ありますか?」


「へ?」



その言葉に反応して、後ろに座っていた真壁先生も振り返ったし、隣の席の英語担当の狩野先生も固まっている。


担任も持っていない私がこんな風に面と向かって話しかけてくることはほとんどなくて、私はてっきり自分がミスをして怒られるものかと思って少し焦った。



「今日私の甥っ子と会っていただけませんか?」


「は、はい?」



…でもその予想は大きく外れ、思わず間抜けな声が出てしまった。

きっと顔も相当なアホ面だったと思う。



「いやね、少し前に生徒たちにお付き合いしていた方とお別れしたという噂をお聞きしまして」


「え」



まさか生徒たちの間でそんな噂が広がっているとは思わなかった。


私はまず一番最初に真壁先生を睨んだ。

すると真壁先生は私の視線の意味に気づき頭をぶんぶん横に振って、顔の前で手をクロスさせていた。


…ほんと油断も隙もない。




「前から甥っ子に椿先生の話はしていて、そしたら甥っ子も会ってみたいって言ってまして」


「は、はあ」


「東京のほうでイタリア料理のシェフをやってるんです。ほら、椿先生ってグルメ通でしょ?まああまり深く考えず、外食する気分で、少しだけ会ってもらえませんか?」




確かに料理は食べるのも作るのも好きだ。


きっと教頭先生はその繋がりで、その人に私の話をしたのだろう。



で、なんでそこから紹介になる…。

まるでお見合いみたいじゃんか。


ちょうど彼氏と別れたばかりだとか言ったのだろうか。



「行ってみたらどう?椿せんせ!」


「え」


「イタ飯のシェフなんて滅多に出会えないよー?」



教頭先生が手を合わせる横で、話を聞いていた狩野先生もわくわくしたように立ち上がり、それに賛同してきた。


とてもとても…目がキラキラしている。

完全に面白がっている。


狩野先生も私が祥馬と別れたのは知っている。

この間飲みに行った時酔っ払った真壁先生がペラペラと話したからだ。


教師としても年齢的にも先輩である狩野先生は私に新しい恋をして忘れろとアドバイスしてきた。




「ねっ!真壁先生もそう思うよねー」


「まあ、そうっすね」


真顔でそう頷いた真壁先生に呆気にとられていると、あれよあれよという間にその人の連絡先を渡され、待ち合わせの場所や時間が決められた。


真壁先生に限らず、私は多分押しに弱い。

それに教頭の頼みをそう簡単に断れるわけがなかった。



まあ会うくらいなら。



私は渡された連絡先と店の名前を見て、3人にバレないようため息をついた。




頭の中に浮かんだのは、紛れもなくあの人だった。

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