第19話
―――――――……
私はその日30分早く百合桜についてしまった。
まだお店は開いていないと思っていたけれど、ドアを引くとなぜか鍵は開いていた。
中に入ると、キッチンで千幸さんがもうすでに下ごしらえの準備を始めていた。
「あ、咲。早いね、おはよー」
「…おはようございます」
「今日もよろしくお願いします」
「………」
「…咲?」
なかなか着替えに行かずそこに立ち尽くす私を不思議に思ったのか、千幸さんが私のほうへ近づいてくる。
それでも私は、そこから動けない。
鞄を両手で握ったまま、どうしようもない焦燥に襲われている。
本当に…どうしようもない。
「今さっき元彼が恋人と歩いてるの見てっ…」
「………」
「本当に楽しそうでっ…」
こんなこと、千幸さんに言っても仕方がないのに。
また私は、左頬に手を当てている。
「私っ、まだあの人とのメール、消せてないんですっ…」
「っ」
「何回も何回も読み返しちゃうっ…見れば見るほど、あの日のことは嘘だったんじゃないかって思えて…」
「………」
「そんなわけないのにっ…本当馬鹿みたいっ」
こんなにも大切なものを失って、好きだった人に裏切られて、友人を傷つけて…それでも私は、まだ信じたいだなんて思ってるの。
もう5ヶ月も経ってるのに。
今さっき、祥馬が玲菜と歩いているのを見たばかりなのにっ。
「全然消えてくれないっ…」
「咲」
「ねぇどうしたら消えてくれるっ…?どうしたら失ったもの全部帰ってくるの?もう二度と幸せになんかなれなくてもいいって言ったら帰ってきてくれるっ…?」
「咲っ…」
「なんで好きなのにっ…なくしちゃうのっ」
「っ」
――その瞬間、温かいものに包まれて、それがあまりにも優しくて温かくて、千幸さんの腕の中で子供のように泣いた。
そしてぼろぼろと溜め込んでいたものを流すように自分のことを話し始めた。
弟は自閉症で障害施設にいること。
父親はアルコール依存症で今は一切連絡をとっていないこと。
母親はそんな生活に疲れて蒸発し、家を出て行ってしまったこと。
私はいつも家では気を遣っていた。
美味しい料理を作ればお母さんが、お父さんが喜んでくれるんじゃないかって。
いい成績をとれば褒めてくれるんじゃないかって。
またみんなで一緒に暮らせるんじゃないかって。
弟の施設入りが決まったとき、私が面倒を見るからと何度も頭を下げた。
でも現実問題、幼かった私にそれは無理だった。
そしてそんな生活に明け暮れていた私に声をかけてきたのは祥馬だった。
弱っていた彼に、私は人生で生まれて初めて自分の話をした。
彼は…一緒に泣いてくれた。
そして言ってくれた。
『1人じゃないよ』
と。
その言葉にどれだけ救われたと思う…?
それがどれだけ嬉しかったか、あなたにわかる…?
ねぇあの喜びも嬉しさも幸せも、一緒に流した涙さえも嘘だったというのなら、私はもう本当に誰も信じられなくなってしまう。
みんな私から離れていった。
みんな好きなのに、大好きなのに。
誰かが不特定多数の人間対して愛はいらないといったけれど、でも愛すのなら、愛されたいじゃない。
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