第4話
「カシスケーキです」
「あ、いや私頼んでないですけど」
「頑張ったご褒美です。虫歯の治療」
「いや、そうじゃなくて」
「召し上がってください。これ、裏メニューなんです。さっき作った僕の新作なんで」
「え」
「ごゆっくりどうぞ」
甘い香りを残して、彼は軽く会釈し去っていってしまう。
一度も振り返ることなく、私の視界の歪みがなくなる前に、彼は行ってしまった。
何度も店内をキョロキョロしてみるけれど、女性のスタッフばかりで、男性のスタッフは見当たらない。
一体…何。
私はわけがわからなくて、ただ目の前に置かれたカシスケーキと手の上の保冷剤を見つめた。
食べて…いいの?これ。
“頑張ったご褒美です。虫歯の治療”
私、虫歯の治療なんかしてないし。
っていうか虫歯の治療した人に対してケーキってどうなの。
もう、本当に…今日はなんてわけのわからない日なんだろう。
「………」
私はただヤケクソのようにフォークを手に取り、綺麗なドーム型のカシスケーキにその先端を押し込んだ。
「うわ…」
その瞬間ケーキの中から、カシスソースがだらりと垂れてくる。
思わず唾を飲んだ。
そしてそのまま吸い寄せられるようにフォークを口の中に入れた。
「っ」
…ふわりと広がったのは、なんとも表現のしようのない甘酸っぱさ。
その中にはカシス独特のほろ苦さとか、生クリームの感触とか、スポンジの柔らかさとか、色んなのが組み合わさっていた。
私はこんなにも美味しいケーキを食べたことがなかった。
こんなにも複雑な気持ちになるケーキを…食べたことがなかった。
“さいってー…”
――嗚呼、もうなんで。
「うっ…っ」
ケーキを口にした瞬間、嘘みたいに涙が溢れた。
我慢していたはずなのに。
それなのにどうして、溢れてくる…?
頬が痛いから?
祥馬に裏切られたから?
また、1人ぼっちになってしまったから…?
きっと全部だ。
全部が入り混じった悲しみや怒りが、溢れて止まらないんだ。
こんなこと今までなかったのに。さっきまでは我慢できていたはずなのに。
この甘酸っぱさとほろ苦さのせいで…涙が止まらなくなってしまうっ。
「痛いよっ…ばかっ」
人目も気にせず、ただ馬鹿みたい泣きながら、夢中でケーキを頬張った。
一体私は…どれぐらいぶりに泣いただろう。
「美味しいっ…」
“頑張ったご褒美です”
虫歯じゃないけど。
彼氏に裏切られて泣いていただけだけれど。
最悪な日になるはずだけだった今日を、このケーキが変えてくれた。
大げさかもしれないけれど、本気で、そう思ったんだ。
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