第3話 焚き火の奥にて

「泊めてやる代わりに、大人しくしてろ」とだけ言われて、納屋の隅に押し込まれた。


夜になった。 納屋の壁にもたれながら、ぼんやりと天井を見上げる。 (……俺は、誰なんだ)


手元には、あの刀がある。目覚めたときからずっと手放していない。 不思議と、この剣だけは違和感がなかった。 握れば、重さも、角度も、力の入り方も、まるで前から使っていたようにしっくりくる。


それに—— 一度だけ、刃の表面にうっすらと、赤い紋のような模様が浮かび上がった気がした。 焚き火の光のせいか、疲れていたせいか、それとも……


(……気のせい、だよな)


体は動く。剣も振れる。けど、それ以外が何もない。 思い出せる名前は“れんか”という響きだけ。 それが本名かどうかも分からない。


俺が何者で、何のためにここにいて、 これからどこへ行くのかも分からなかった。 納屋の隅、干し草の上。 空腹は少しだけ紛れたが、寒さと湿気が骨に残る。


村人たちは、俺を必要以上に見ようとしない。 避けるでもなく、寄るでもなく、ただ「いないもの」として扱っているようだった。


(……居心地、わりぃな)


そう思いながらも、火の灯りがちらちら揺れるのを眺めていた。 外では村人たちが数人、焚き火を囲んで何かを話している。 かろうじて聞こえてくるのは、重苦しい話題ばかりだ。


「……今度は米だけじゃ済まんかもしれん」 「娘も取られたら、それはもう村じゃねえ……」 「柊谷衆の奴ら……あいつらは鬼だ」


“柊谷〈ひいらぎ〉”という言葉に、耳が反応する。


(……柊谷衆〈ひいらぎしゅう〉、ね。ま、俺には関係ねぇが)


何も知らずに来た村が、ただ静かに生きているわけじゃなかった。 ここには、明確な“圧”がある。



朝になると、村はすでに動き始めていた。 誰もが無言で働き、無言で去っていく。 声があるのは鶏と風の音だけだ。


俺は納屋を出て、村のはずれに向かった。 何か、空気の違う場所があった。


そこにいたのが、あの老人だった。


土間にしゃがみ込み、鉄鍋を火にかけていた。 背中は広く、腰は曲がっているが、どこか“隙”がない。


その男は、一瞥だけこちらに視線を向けた。


「……居場所、見つかったか」


低く、かすれた声だった。 俺は思わず足を止めた。


「いや、まだだ」


「なら……村に根を張ることもあるまい」


それだけを言って、男は再び鍋に目を戻した。 俺は言葉を返さず、ただその背中を見つめていた。


焚き火の奥で、鉄が静かに鳴った。



「……あの人に、近づかんほうがええ」


背後から、小さな声がした。 振り返ると、若い農夫が一人、桶を担いで立っていた。


「石動 甚八のじい様。昔は剣の人だったらしい。あの目は、今でも斬る目だ」


そう言って、彼はそそくさと去っていった。


名は、石動 甚八〈いするぎ じんぱち〉。 その目は、静かで深く、何かを遠く見つめているようだった。

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