第六話 【頂上の激闘! ~いざ、クエストクリアへ!~】
日が傾き、あれほど喧しく鳴いていた蝉達の声も、ようやくわずかながら落ち着きを見せ始めた。
ふと僅かな頭痛を覚え、両目の周りを指で軽く揉むように押さえる。そして細く長い溜息をつき、座っていた椅子の四角い背もたれに背中を預けると、ギ……と安いプラスチック製の支柱が突然増した重みに驚き低い声を上げた。
静まりかえった室内。その中央奥のデスクに置かれたパソコンの前で、創はひたすらに考えを巡らせていた。
この状況に対し、創は腹に据えかねるものが多々あった。様々なことが一度に起こって処理が間に合わず、有り体に言えば少々苛ついていた。
まず、普段通りに自分のゲームで遊んでいた妹が消え、ゲームの世界に行った。
だがこの点に関しては、もはや割り切ろうと彼は考えていた。まさかこのような、マンガやアニメでしか見たことのない現象が実際に起ころうなどとは夢にも思わない。どうせ原因など考えたところで詮無いことだろう。
――創にはややドライな一面があった。
問題はその次だ。性格や設定のがらりと変わったキャラクター、挙句の果てには生み出した覚えのないボス。創は、自分が苦心して生み出したものを他人からひょいと横取りされ、好き勝手におもちゃにされるような不快感を覚えていた。
多少おかしな挙動をしようとも、所詮は己の手により作られた世界、自ら敷いたレールの上を進んでゆくものと高を括っていたが……これでは、手探りで攻略法を探すプレイヤーと何ら変わりないではないか。
それに、もっと切迫した問題もある。言うまでもなくみくるのことだ。いまだにこちらの世界に帰ってくる目途が立っていない。何かしら解決の糸口が掴めればとパーティーへの同行を勧めてみたものの、今のところ成果はゼロに等しい。
もしかしたら……と、創は一抹の不安を感じずにはいられなかった。みくるは、かわいい妹は、もう帰ってこられないのではないか、と。
幸い、ゲーム世界と現実世界には時間の流れに大きな開きがあるようで、向こうでは既に一日以上が経過しているにも関わらず、こちらはまだ一時間と少々だ。
しかし悠長なことも言っていられない。もし夜になっても帰ってこなければ、共働きの両親もみくるがいないことに気付くだろう。そのとき何と説明すればよいのだ。ありのままを言ったところで信じてもらえる可能性は低いどころか、こちらの正気を疑われかねない。捜索願いなど出されては大変だ。
「…………」
険しい顔で画面を見つつ、右手で鎖骨の下あたりまで伸びた黒髪を荒く梳く。悩みながら考え事をしているときの創の癖である。髪が傷むからやめなよ、と何度かみくるに言われているのだが、無意識のうちにやってしまうものは仕方がない。
創は二度目の溜息をつくと、右手を下ろし思考を切り替えるために軽く伸びをする。解決方法が無いものをいくら考えたところで何も得られるものは無い。ひとまずは目の前の問題をどうにかしなければならない。そう――今まさに対峙している、己の手の上にはいない、招かれざる厄介者を。
画面に動きがあった。創は薄い唇を引き結んで、平面の戦闘に意識を集中させる。
「バインド!」
リーリアが相手の動きを封じる魔法を発動させた。ドラゴンの真下に魔法陣が出現して、床から伸びた半透明の鎖がドラゴンをがんじがらめにする。でもそれはほんの一瞬のことで、ドラゴンが一声上げると鎖は粉々に砕け散ってしまった。
「わーん、ぜんぜんきいてないよぉ!」
リーリアが落胆した声を上げる。そもそも、ボスには行動を妨害するような魔法や道具は効きづらいように設定されてるから無理もない。相手の属性にもよるけど、状態異常効果のある魔法もあんまり期待できないかも。
「力で押すしかないということですか……望むところです」
シグレがその場で軽くトントンと跳ねてリズムを作ると、身を沈めて勢いよく床を蹴った。
「疾風連撃!」
ズバズバズバッ、と技名の通り疾風のような速さでドラゴンに斬りかかる。おしまいにシグレは壁を利用した三角飛びで高く舞い上がると、落下の勢いそのままドラゴンに短剣を突き刺そうとした――
でも、ドラゴンも最後まで大人しく技を喰らってはくれなかった。首をシグレの方へ向け、大きく口を開く。その口から火の玉が吐き出されて、シグレの肩に直撃した。
「つっ……!」
熱さと痛みに顔をしかめるシグレは、それでも負けじと攻撃しようとしたけれど、勢いを殺された刃はドラゴンの硬い鱗にあっさりと弾かれてしまう。
その隙に、ジタンがドラゴンの背後に回り込んだ。死角から強力な一撃を叩きこもうと大剣を振り上げる。
しかしドラゴンはそれも読んでいたのか、両腕を上げたためにがら空きになった胴体を強く尻尾で打ち払った。もんどりうって倒れるジタン。それだけで終わらずに、ドラゴンはさらに尻尾を高く振り上げると、体勢を崩したまま防御もままならないジタンへ、鞭のように振り下ろす!
「ぐっ」
「シールド!」
バシッ
表情を強張らせるジタンに尻尾が叩きつけられる直前、突如現れたバリアがぎりぎりのところでそれを防いだ。オルフェだ。
「すまん、助かった」
「気ぃつけてね」
ドラゴンから目を離さずに二人は短く言葉を交わす。あたしはほっと一安心のため息をつくと、ちょうど目の前を飛んでいるリーリアに向かって言った。
「リーリア、光属性の魔法で攻撃してみて。あいつ、見た目からして闇属性っぽい」
「分かった!」
元気よく返事をして、リーリアが手のひらを前方に突き出すと魔法を唱える。
「ホーリースピア!」
次の瞬間。まるで、闇夜を一筋の流れ星が裂くように。手のひらに収束した光の魔力が、一直線にドラゴンの体を貫く。がく、とその巨体が一瞬激しく痙攣した。
『効いてる。闇属性で間違いないみたいだ。ただ、何か対策をしてこないとも限らないし、注意はしたほうがいい』
「うん、ありがとうお兄ちゃん。じゃあリーリア」
光の魔法中心で――というあたしの指示はドラゴンの声にかき消された。攻撃の矛先が完全にリーリアに向く。
「気を付けて!」
あたしの叫びとほぼ同時にドラゴンが口を開いた。直後火の玉が吐き出される。それは先程シグレに向かって吐いたものよりもやや小さくて明るかった。
「うぁっ!」
反応が遅れたリーリアに火の玉がぶつかる。小さな体が空中で一回転。
「リーリア!」
「へ、へーきだもんっ」
羽を激しくはためかせて体勢を立て直すと、一度距離を取るために高度を上げようとする……けど、
「う……! なに、これ……!?」
あたしはリーリアの様子がおかしいことに気づいた。顔が真っ赤だし、ゼェゼェと不自然なほど息が荒い。それに飛び方だって、雨に打たれたチョウみたいになんだかおぼつかない。
「あうう、あつい……苦しい……!」
「ちょ、ちょっとどうしたの……!?」
『みぃ、まずいぞ燃焼状態だ』
焦るあたしの声に、即座にお兄ちゃんが答えた。
状態異常、燃焼。その効果は毒状態と同じで、毎ターンダメージを受ける。でも一つ毒と違うところは、時間が経つごとに受けるダメージが増えていくこと。だから、早めに治さないとやっかいなんだ。
「リーリア、すぐ治しちゃるけぇ落ち着きんさい」
同じく異変に気付いたオルフェが回復魔法を使おうと杖を掲げる。そこへさせるものかとばかりにドラゴンの攻撃。
「く……この、邪魔じゃ」
思うように魔法が使えなくて歯噛みするオルフェ。そうしている間にも、リーリアの体力はどんどん削られていく。なんとかしなきゃ! 魔法が無理なら……
「あ、そうだ!」
あたしは背中のリュックサックを下ろすと、中を探った。昨日の夜確かめたんだ。燃焼状態に効くアイテムを持ってたはず……あった!
急いで他のアイテムをかき分けて、フラスコのような形をした瓶を取り出す。その名も『氷龍の息吹』。味方に使うだけじゃなくて、火属性のモンスターに使えばダメージも与えられる。
「リーリア、今助けるからね!」
瓶の口をリーリアに向けると、コルク製の栓を抜いた。すると、一見何も入っていないような瓶から、薄青く輝く霧のようなものが吹き出した。それは瞬時にリーリアの体を包むと、あっという間に消える。そして。
「あ……あついの治った! ありがと、みくる!」
状態異常から復帰したリーリアが笑顔をこちらに向けて、気合十分といった風にドラゴンに向き直った。すぐに対処したから、ダメージもそうひどくはなかったみたい。
それを見届けてから、改めてリュックサックの中を覗きこむ。回復薬を始めとしたいろんなお薬、各種薬草、その他アイテムエトセトラ。万が一に備えての準備はきっちりしてある。オルフェが動ける間はそう必要でもないかもしれないけど、あたしだって最低限、パーティーの後方支援ぐらいはできるんだ。
「グオォォッ」
するとみんなが攻撃を続けるさなか、突然、いら立ったようにドラゴンが吠えた。今にも斬りかかろうとしていたジタンとシグレが危険を感じてさっと飛びのく。
ドラゴンは地面に爪を立てて、身をぐっと縮める。一瞬、紫色の鱗が強く光った。
「何をするつもりで――」
「シグレ、いけん! みんな離れたほうがええ!」
オルフェの言葉が終わるか終わらないかのうちに、ドラゴンが前足を高く上げた。そして、足元が揺れるほど床を強く踏みしめ――
ドッゴオォン!
「うわああっ!」
その瞬間、ドラゴンの周りを取り囲むように爆発が起こって、四人全員を巻き込みながら炎が床を踊った。階段の近くに隠れていたあたしは転げ落ちそうになり、すんでのところで手すりを掴んで止まる。
『えっ……』
すると、お兄ちゃんの驚いた声。
「うぅ死ぬかと思った……お、お兄ちゃんどしたの?」
『今の攻撃、ヘルフレイムだって』
「え? ヘル……それって前のボスが使ってたやつじゃん!」
この世界に来る前に倒した、あの赤い熊のモンスター。火属性の攻撃をばんばん仕掛けてくる敵で、特にこの魔法は高火力なうえに全体攻撃だから苦労した。
『まさか、他のボスキャラ固有の攻撃をそのまま使えるのか?』
「バグだからってさすがにチート性能すぎじゃない!?」
「み、みんな大丈夫か?」
苦痛の色を浮かべながらも、オルフェが立ち上がって周囲に声を掛ける。あたしも心配になって階下から顔だけ出して視線を走らせた。
……大丈夫、みんな大ダメージは受けたみたいだけど、力尽きた人はいない。メンバー全員の生存を確認したオルフェは、よくもやったなとばかりにちらりと鋭い視線をドラゴンに送ると、杖を掲げて魔法を唱えた。
「サンクチュアリ」
杖から輝きが生まれて、それは一気に広がるとベールのように室内を覆った。オルフェを含めたみんなの傷は癒えて、反対にドラゴンは苦しそうに身をよじる。
味方全員を回復させつつ敵にはダメージを与える回復と攻撃の複合魔法。つい数日前にお兄ちゃんが実装したばかりだった。テストプレイではまだ使ったことなかったんだけど、よかったちゃんと発動するみたい。
「キシャァァッ!」
「ぐっ!」
しかし反撃も束の間、怒りの声を上げてドラゴンがオルフェに爪を振るった。かろうじて杖を構えて防御は間に合ったけど、威力に負けて細身の長身が宙を舞う。
ドンッ
鈍い音を立ててオルフェの体が階段近くの壁に激突した。衝撃で帽子が転がり落ちると、薄茶色の髪が露わになる。
「だ、大丈夫!?」
「っ……構わんでええ」
外れかけたモノクルを直しながら、ややかすれた声でオルフェが答えた。
「紫電一閃!」
「バーンクラッシュ!」
追撃を阻止しようと、ドラゴンの背後からシグレとジタンが連続で技を放つ。どちらも完璧に決まって、確かなダメージを与えられた。
「みんな!」
すると頭上から甲高い声。見上げると、リーリアが両手を胸の前で構えて魔法発動の準備をしていた。
「すっごいまほう出すよ! あぶないから下がって!」
それを聞き、三人は素早くドラゴンから離れる。
リーリアは果敢にもドラゴンの真正面に飛んでいくと、両手を高く天にかざして、その手を前に突き出しながら叫んだ。
「ヘヴンズレイ!」
その途端、ドラゴンの頭上に光が現れた。薄暗さに慣れた目には少し辛くて、思わず一瞬顔をそむける。ドラゴンも何事かと上を向いた――次の瞬間!
ドドドドドドドドド……!
そこから光線が雨のように何本も降り注いだ。神々しいほど壮絶な、まさに天の光と言うにふさわしい魔法。
それらはだんだんと激しさを増していくと、やがて聖なる輝きはドラゴンの全身を包み込んで大爆発を起こした。
ドラゴンの絶叫が爆発音の合間に聞こえる。リーリアが放ったのは、光属性の強力な攻撃魔法。確か、今覚えてる中でも一番強かったんじゃないかな。その分消費するMPもすごく多いけど、敵の弱点属性でもあるし、これで相当なダメージを与えられるはず!
もうもうと土煙が上がり、やがて晴れた。床に突っ伏すような格好で倒れているドラゴンが現れる。全身傷だらけで、鱗の一部は欠けたりヒビが入ったりしていた。
「これは効いたんじゃない……!?」
『いや、まだだ』
声を弾ませたあたしの耳に、張り詰めたお兄ちゃんの声が届いた。
ピク、とドラゴンの手が動く。その場にいた全員の顔が強張った。
ゆっくりとドラゴンが起き上がる。隙だらけのはずなのに、誰も攻撃を仕掛けない、いや仕掛けられない。動きの遅さがやけに怖かった。
ドン! とドラゴンの片足が床を踏み鳴らす。そしてぶんぶんと首を振ると、感情を叩きつけるように遠吠えを上げた。
「ウソでしょ……まだ元気そうじゃん……」
「ああんもう、決まったと思ったのに!」
リーリアが悔しそうに空中で地団駄を踏む。
「しぶといですね……いいじゃないですか、面白い」
シグレの不敵なセリフは、自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
「クソッ……」
止まっていた時間が動き出した。ジタンがドラゴンの前に躍り出ると、大剣を振り上げる。
「いい加減に――くたばれ!」
怒声と同時に、全力で大剣を振り下ろした。ドラゴンの体がわずかに跳ねる。それで終わりかと思いきや、ジタンはそれからさらに右足で深く踏み込むと、大剣を担ぎながら飛び上がった。
「ぅ……らぁっ!」
そして体を回転させ着地と同時に再び斬る!
「ガァァッ」
連撃を受けて怒りとも苦悶の声ともつかない咆哮を上げたドラゴンは一歩後ろに跳び退ると、ボゥッと火炎の玉を一つ吐いた。
それは以前のものと比べると随分速度が遅い。苦し紛れの反撃? やっぱり弱って――だけどドラゴンが身を沈めるのを見て、ハッと気づいた。いや……あれは!
「チッ」
馬鹿にするなとばかりにジタンはその火炎を大剣で払う。
「違う! ジタン避けて!」
「はっ……!?」
あたしが叫んだときにはもう遅かった。剣を振り切ったことで空いた胸。そこめがけてドラゴンが勢いよく体当たりすると、そのまま壁に激突! やっぱり、あの炎は囮だったんだ……!
「ぐあ……ぁ……!」
壁とドラゴンに挟まれたまま足をつくこともできず、ジタンが苦しげに呻く。ドラゴンは四本の足を踏みしめると、とても手負いとは思えないような力で、まんまと策に掛かった勇者の体を締め上げた。
「何すんのっ!」
「離れなさい!」
即座にリーリアとシグレが救出に動く。
「アイシクルレイン!」
大きなつららが次々に降っては突き刺さる。さらに間発入れずに飛び込んだシグレが、着弾点を的確に狙って切りつけた。
ドラゴンの体が離れて、ジタンが床に落下する。しかしそれで安心かと思いきや、ドラゴンは倒れこんで激しく咳き込むジタンの赤いマントを咥えると、乱暴に放り投げた。
「なっ……」
一瞬そちらに気を取られた隙をついて、尻尾を一閃。二人は弾き飛ばされる。
「ああう……っ」
「このっ……モンスターの分際で小賢しいことを」
羽ばたいて、あるいは受け身を取って。それぞれ体勢を整えると、一向に大人しくなる気配のない黒い脅威を見据える。
「キシャァァァーーッ!」
再び、あの恐ろしい咆哮。ドラゴンが今まで背中に畳まれていた羽を広げた。ふいに、室内が暗さを増す。あたしはふと肌にぴりぴりしたものを感じた。
『これは……』
バチバチバチィッ!!
「わあぁっ!?」
突如、轟音と共に黒い稲光が何本も発生。シグレを、リーリアを、片膝をついたジタンを、そして助け起こそうとしていたオルフェを、全員まとめて叩きのめす。
これによく似たエフェクトを以前見たことがあった。またいつかのボスの魔法を……!
「ぐ……この……っ!」
オルフェが絞り出すように声を上げると、やっとの思いで立ち上がる。そして震える右手で杖を高く掲げると、その先端が淡く光った。
「オールキュア」
魔法が唱えられた直後、杖の先から放たれた光の粒がパーティー全員を優しく包み込んで、癒す。数ある回復魔法の中でも上位のもの。
するとドラゴンはうっとうしい魔法を持つオルフェを先に倒そうと考えたのか、立て続けに攻撃を繰り出した。爪を一振り、二振り、それをオルフェがかろうじてかわすと、首を床すれすれまで下げて、口から凍てつく氷のブレスを吐いた。
「うぐぅ……っ!」
範囲の広い攻撃に、オルフェは今度こそ避けられずまともに喰らってしまう。
「こりゃ、いけんのぉ……回復が間に合わんわい」
ふらつきながらオルフェが苦々しげにそう言葉をもらす。
「……う」
思わず後ずさったあたしの背中に石造りの壁が当たる。ぶるりと全身が震えたのはきっとその冷たさのためだけじゃない。
「どうしようお兄ちゃん……強すぎるよ、いくらなんでも」
ドラゴンの攻撃は、弱まるどころかどんどん激しくなってる。まるで、今までが遊びだったんじゃないかと思うくらい。
『手数の多さや攻撃力もそうだけど、何よりタフすぎるな……中ボスレベルの強さじゃないぞ。ゲームバランスも何もあったもんじゃない。俺のゲームをぶち壊す気か、こいつは』
製作者の観点から、お兄ちゃんが怒った風に言った。
「ここまで来たのに……このままじゃ」
全滅するかも、という言葉は舌の先で止まった。口に出したら本当にそうなる気がして。
『……みぃ、持ってるアイテムを確かめてくれ』
「え? う、うん」
突然、お兄ちゃんがそう切り出した。言われるがまま、リュックサックの口を開ける。
「何を使えばいいの?」
『けむり玉、だ。俺の記憶が正しければまだ三つくらい持ってたはず』
それを聞いて、あたしの手がぴたりと止まる。
「え……それって……」
『最後の手段だ。一度引いて作戦を立て直すぞ』
けむり玉っていうのは、戦闘から絶対に逃げられるアイテムのこと。このゲーム、一般的なRPGとはちょっと違っていて、逃げるコマンドがボスにも有効なんだ。
ボス戦で逃げた場合は、最後にセーブした場所まで戻される。そこは全滅した場合と変わらないんだけど、全滅と違って持っていたアイテムやお金が消えたりしないから、いざとなれば逃げるのも一つの手だった。
『レベルやアイテムをもう一度整えて、再挑戦するんだ。みぃ、散らばってる全員を集めてくれ』
冷静で、淡々とした口調。
確かに、これはゲームだ。RPGの世界だ。一時撤退も立派な作戦だと思う。あたしだって、いつもならそうした。でも――
「……お兄ちゃん」
自分でもびっくりするぐらい静かな声が出た。
「それって、この場は諦めろってこと?」
『……まあ、そういうことになるな』
あたしは両手をぎゅっと握って唇をかみしめた。階段の先を見上げる。戦っているみんなが見える。お兄ちゃんの言う通り、このまま戦い続けても勝ち目はないかもしれない。現に、みんなもうボロボロで、防戦一方だ。でも……
「はぁぁーっ!!」
シグレが床を蹴る。ジタンが大剣を振りかざして、リーリアが魔法を放ちながら周囲を飛び回って、オルフェも回復を挟みつつ補助魔法でみんなを支える。
「……やだよ」
ぽろりと言葉がこぼれ落ちた。
みんな、まだ諦めてない。何度も手痛いダメージを受けて、MPも少なくなってきて、それでも、誰一人として手を止めない。戦いを見ているあたしより何倍も怖いはずなのに、立ち向かってる……戦うことを、勝つことを、諦めてない!
「お兄ちゃん、あたしだってパーティーの一員だよ」
自分を奮い立たせるように、一言一言、はっきりと口にする。
「他のみんなががんばってるのに、あたし一人だけが逃げようとか、そんな弱気なこと言えないよ」
ここは、いつも遊んでるみたいな、システムに支配されたシナリオ通りの平面の世界じゃない。
一人一人にちゃんと感情があって、みんな自分の意志で動いてるんだ。ゲームかもしれないけど、あたしにとっては今のこの世界こそが現実なんだ。
だからこそ……簡単に無責任なことなんか、言いたくないし、やりたくない。
「難しいのは分かってる。でも考えよう! 逃げるとかそんなのじゃなくて……今勝つためにどうするか!」
『……そうか』
どことなく温かい声音でお兄ちゃんが言った。なんとなくだけど、画面の向こうで微笑んでる気がする。
『さて、じゃあどうしようか。こちらの攻撃が一切効いてないというわけではないからな。補助魔法とかアイテムで誰か一人の攻撃力を集中的に上げまくって、火力の高い技か魔法でガンガン攻めればいけるか……?』
「そこなんだよね……」
リーリアの一番強い魔法でも、結構効いたってレベルだった。それを何度も使わせるのは負担が大きいし、何よりMPが保たない。
もっと、強力な攻撃が必要なんだ。一撃で決定的なダメージを与えられる何かが……でも、そんなもの都合よくは……
『バグさえ起こってなかったらなぁ……今のレベルなら十分勝てるボスだったはずなのに』
溜息交じりにお兄ちゃんが言う。
「仕方ないよ。バグっちゃったものはもうどうしようも……」
その単語を口にした瞬間、何かが頭の中をかすめた。
「うん!?」
とっさにそれを掴んで引き寄せる。おぼろげだったものを、はっきりさせる。
「そうだよ……バグだよ! その手があった!」
『み、みぃ、どうかしたか?』
一人興奮するあたしにお兄ちゃんはちょっと困惑気味。
「お兄ちゃん、あのバグまだ残ってるよね、修正してないよね!?」
イヤーカフに手を添えて、あたしは大きな声で聞いた。
『あのバグって……ああ、あのことか』
少し考えるような間があってから、お兄ちゃんは言った。
『そうだな、あれならこんな敵でも倒せるかもしれない』
「よーしっ……」
はやる気持ちを抑えて、階下から顔を出す。
「ジターンっ!」
そして声を張った。いきなり呼ばれたジタンが怪訝な顔であたしの元まで来る。
「おい、何だ。急にでけぇ声出して」
「ちょっとね、やってみてもらいたいことがあるんだけど……いいかな」
「あァ? いい作戦でも思いついたかよ。こっちも悠長に聞いてる余裕は無ぇ、手短に言え」
「うん! あのさ、シャインブレードって技あるでしょ? あれを使ってほしいんだけど」
「……はぁ!?」
あたしの提案に、ジタンは素っ頓狂な声を出した。
「何言いだすかと思えばお前っ……今までの見てなかったのかよ!? んな子供でも使えるような技通用するかっつーの!」
まぁ、ジタンの言うこともごもっとも。シャインブレードはレベル5から使えるお手軽な光属性の技で、当然威力はそれなり。今じゃほぼ出番もなくなったような弱小技だ。ザコ戦ならともかく、とてもボスに使うような技じゃない。
……だけど、これがすごく重要だったりする。
「一回だけでいいから! ちょっと試してみたいことがあるの! ねっ!?」
「んだよ……ったく……」
あたしの剣幕に負けて、ものすごく渋々といった様子でジタンが大剣を構える。そしてドラゴンに向かって駆け出し――それと同時にあたしは言った。
「お兄ちゃん今だよ!」
カカカカカッという小気味いい乾いた音が、イヤーカフを通してかすかに聞こえてきた。ジタンがドラゴンの脇腹を狙って大剣を振り上げると、その刀身が薄く光に包まれる。
「一回だけだからな!」
顔は向けずにあたしにそう怒鳴ってから、片足を踏み込む。そして輝く刃はドラゴンに振り下ろされ――
「シャイン……おわっ!?」
――ることはなかった。
大剣が鱗に包まれた肉体を裂くまさにその直前、まるでスイッチが切れたみたいに大剣に宿る光が消えて、軌道のぶれた刃はドラゴンの体をかすめる。結局、少しのダメージも与えられずに終わった。
愕然とするジタン。ところがあたしは対照的に、こっそりと小さくガッツポーズをした。
――狙い通り!
「ちょ……ここにきてミスるって何ですか!? しかもそんな初歩的な技で!」
追撃しようと準備していたシグレが怒ってジタンをなじる。
「いや、こんなはず……なんで……」
「ううん、これでいいんだよ! これで!」
ドラゴンから急いで離れて呆然と立つジタンに、あたしが声をかけたそのとき。
ふいに、それは起こった。
「え……う、うお!?」
ジタンの足元に、光る何かが出現する。よく見るとそれは、円を描くように配置された様々な数字、記号、文字の数々だった。
「なんだ、これ……」
訳も分からず、ジタンはそれをただ見つめる。他のみんなも、ドラゴンでさえ、いきなり現れた謎の現象を前に動けずにいた。
すると、ぼんやりと光を放っていたその文字列が、急にまばたきをするように点滅しだした。最初は一秒に一回くらいのペースだったのがだんだん早くなって、数えるのが追いつかないぐらいの速度になると、今度はパァッと破裂するように全ての文字列が粉々になった。
無数の小さな光の粒が粉雪みたく宙を舞う。そして、その全てがジタンの体に吸い込まれるようにして消えた。
「う……!?」
ジタンが二、三歩後ずさる。
「大丈夫かっ、ジタン!」
異様な事態に、珍しく慌てた様子でオルフェが駆け寄った。
「あ、あァ。体は無事だ。どうもねぇ」
オルフェを安心させるように首を縦に振ってみせたジタンは、それでも眉をひそめる。
「……どうしたんね。無理はいけん。何かちぃとでも異常があるなら言うてみんさい」
「いや、そんなんじゃねぇんだ。けど……いや……まさか……」
「さっきから何をぶつぶつと……アナタ本当に平気なんですか!」
「ど、どうしたのジタン。ドラゴンに変なことされた……?」
頭上を飛んでいたリーリアや、ドラゴンを挟んで反対側にいたシグレも、ジタンの様子がおかしいのを見て心配そうな目を向ける。
当のジタンは考え込んだ表情から一つ何やら頷くと、いきなり大剣を持ち上げた。刃を下にして両手で構えて、足を肩幅に開く。そして怪訝そうな三人をよそに両腕に力をこめた。
シュゥゥゥゥ……!
その途端、大剣に向かって収束するようにまばゆい光が集まった。風もないのにマントがばたばたとはためいて、その全身は炎が踊るようなオーラめいたものに包まれる。あたしは魔力とか殺気とか全然分かんないけど、それでもすさまじい何かを感じ取った。
「グルル……!?」
オルフェ達だけじゃなく、ドラゴンも圧倒されたように一歩分身を引く。うかつに近づかないほうがいいと判断したのか、いつでも攻撃できる姿勢を保ったまま油断なく動向を見守っていた。
『みぃ、うまくいったぞ』
そう言うお兄ちゃんの声が聞こえたのと、ジタンが技の発動を途中でやめたのが同時だった。
「なっ……何なんですかそれは! 見たこともない技でしたが……いつの間に習得していたんです!?」
食ってかかるように言うシグレ。対するジタンは困り顔で、
「いや……オレにもよく分からん。習得したっつーか……思いついた」
と鼻の頭をかいた。
「……はぁぁ~!?」
当然それで納得するはずもなく、シグレは大きな声を出す。
「こんなときにフザけてんじゃないですよ! 適当にやったらできたとでも言いたいんですか!」
「しょうがねぇだろそれ以外に説明のしようがねぇんだよ! あの変な現象を見た瞬間頭に浮かんできて……その通りにやったらなんかできたんだよ! どうなってんだクソッ」
かみつくシグレにいらついたように返すジタン。本人が一番混乱してるみたいだった。
「やっぱし、さっきの光るもんが関係しとるんか……? 魔法陣たぁちぃと違うようじゃったが」
さすがオルフェは冷静で、こうなった原因を考えている。
でも残念。これは魔法とかそういう類のものじゃない。そして、ジタンが突然使えるようになった技が何なのか、あたしは知っていた。
「……テル・イスレイだよ」
みんながちょっと落ち着いた頃合いを見計らって、あたしはそう切り出した。
「……は?」
ジタンがこちらを向く。
「さっき使えるようになった技だよ。ジタン、知ってるでしょ?」
「知ってるも何も、それ……」
「予言の書にあった……伝説の勇者だけが使えるっちゅう技じゃ」
ジタンの言葉を引き継ぐ形でオルフェが言った。
「そうそう、それ!」
オルフェの言った通り、この【テル・イスレイ】という技は、予言の書に書かれた勇者……つまりはジタンだけが習得できる、魔王に対抗するための、言わば伝説の最終奥義。
「この技を使えば、ドラゴンだって倒せそうでしょ?」
「いやさらっと言ってるけどお前、テル・イスレイって……あくまで伝説上の技じゃなかったのかよ」
「もはや魔術回路すら記録に残っとらん……失われたはずの技がなんで」
代わるがわる言う二人。うーん、まぁ無理もないか。本来ならこれ、物語終盤のイベント戦を経て覚えるものなんだよね。それを今いきなり習得したって言われてもそりゃびっくりするはず。
「……そういや、お前の指示を聞いてからだったよな、こうなったの」
ゆっくりとジタンが近づいてきて、あたしを見下ろす。恐れているような、にらんでいるような、変な顔をしていた。
「オレに、何かしたのか」
あたしはにっと笑って答える。
「正確には、あたしのお兄ちゃんがね!」
ネタバラシしちゃうと、このゲームには、【シャインブレード】で攻撃するときバックスペースキーを連打するとダメージ判定が消えて、しかも次のターン、コマンドスロットになぜか【テル・イスレイ】が出現して一回だけ使えちゃうというバグがあったのだ。
数日前、技の選択を間違えたあたしが、悔しくて無駄と知りつつキャンセルしようとバックスペースを連打したら発見したバグだった。
ここでも通用するのかちょっぴり不安だったけど、成功したみたいで何より。……まあ、あんなに幻想的な感じになるのはちょっと予想外だったけどね。
もちろんこんな正攻法じゃないやり方で敵を倒すなんて本来御法度だし、思いっきり最終奥義のネタバレを喰らわすのはパーティーにも申し訳ないけど……あのドラゴンだってバグで出現したものなんだから、こっちもバグで対抗したってバチは当たらないよね!
「お前の兄貴がオレに力を与えたとでも言うのか? んなことあり得るのかよ……こんな……」
低い声で呻くように言うジタン。
「できるに決まってるじゃん」
あたしはなんだかカッコつけたくなって、胸に手のひらを当てるときっぱり言った。
「あたしのお兄ちゃん、この世界の創造主なんだから!」
それを聞いたジタンは、一度目をわずかに見開くと、ははと脱力したように笑った。
「キシャァーッ!」
そのとき、警戒してジタンから距離を取っていたドラゴンが、その後何も動きが無かったことで安全と判断したのか、ぶうんと爪を一閃した。
「チッ!」
ジタンはそれを前方に転がってかわす。それから素早く身を起こすと、大剣を両手で構え直した。
「仕組みはよく分からんが、使えるもんはありがたく使わせてもらうぜみくるの兄貴よ。対魔王用の技だ、これならこのデカいのも一発だろ」
「でしょ? よぉーし、ぶちかましちゃえジタン!」
こぶしを突き上げあたしは言った。やっと勝機が見えてきた!
――でも、ジタンはなぜか浮かない顔。
「まァ……技がうまく発動できればの話だけどな」
ぼそりとそんなことを言う。
「え? あ、さっきみたいにミスるの心配してる? 大丈夫! さっきのはお兄ちゃんが強制的にミスらせただけだから、自信持って! 次は絶対できるよ!」
「そっちじゃねぇわ。つーかお前の兄貴の仕業とはいえ割と恥ずいんだから蒸し返すな。……あのな、少しやってみて分かったがこの技はかなり魔力を集中させる必要がある。そうすぐに発動できるもんじゃなさそうなんだよ」
「……へっ?」
『え……みぃ、まさか忘れてたのか』
間の抜けたあたしの反応に、恐る恐るといった感じのお兄ちゃんの声。
『あんまり自信満々だったから、てっきり溜めてる間の作戦も考えていると思ってたんだが……』
「うそっ!? この技溜めが必要だったっけ!?」
溜めが必要な技はその間行動ができなくなって、もし溜めてる間に倒されたり、眠りや麻痺みたいな行動に影響を与える状態異常になったりしたらキャンセル。しかもこの技、というかこのバグは戦闘中一回しか使用できない。
つまり……一度失敗したら、もう打つ手が無くなる! まさか、あのドラゴンが強力な技を放とうとしている者を見逃すとは思えないし……。
「もぉ~っ! なんでそんな仕様にしたの!?」
『い、いや……本来なら溜めてる間にイベントが進むことになってるから……』
思わずあたしはお兄ちゃんに八つ当たり気味に怒った。
「おい、何話してるかは知らんがケンカしてる場合じゃねぇだろ。みくるの兄貴、オレが技使うまでの間アイツの動きを止めるとかできねぇのか」
そしてジタンの声で我に返る。
「うぅ、それはさすがに……。ジタンに攻撃が当たりさえしなければいいから、うーん……」
しばらく考えて、はたと思いついた。
「そういえば、オルフェがシールドで攻撃防いでたよね? あれを使いまくるとか」
『だめだ、それじゃ弱い。100%防げるとは限らない。それに、シールドで防げるのは一度までだ。あのドラゴン、二回攻撃もできただろ? 一回目でシールドを壊して、二回目で本命の強力攻撃なんてこともあり得る』
「あーそっか……じゃあ……ええと、これとか」
迷った末に、あたしはリュックサックから一つの小さなサイコロを取り出した。
一見どこにでもありそうなこれは名前を『奇跡のダイス』といって、状態異常を引き起こす確率を100%にするというもの。
「おーい、リーリア!」
それから離れたところで戦っていたリーリアを呼んだ。
「なぁにー?」
「確か、麻痺効果のある魔法持ってたよね?」
「うん、あるよ」
「これあげるから、ちょっとそれ使ってみてほしい」
麻痺になると、ザコ敵なら数ターンは行動できなくなる。
『なるほど動きを封じるのか。麻痺……うーんどうだろうな……』
自信なさげなお兄ちゃんの声。あたしも正直、ダメで元々って気持ちだ。ボスはそもそも状態異常になりにくい。アイテムの効果でそうなったとしても、どれぐらい持つか……。でも、やらないよりはマシだもんね。
「奇跡のダイスは二つあるから、一回目は様子を見て、いけそうならもう一度やろう。リーリア、お願い!」
「分かった!」
リーリアは左手に奇跡のダイスをしっかり握ると、ドラゴンに向き直って右手を頭上に掲げた。そしてその手を正面に向けると同時に魔法を唱える。
「パラリシス!」
バチチッ、と一筋の電流がドラゴンの体を真下へ一直線に走り抜け、
「ギャアッ……!?」
喉の奥で低く悲鳴を上げたドラゴンが床にうずくまる。全身を小刻みに震わせながら、ぐぐ、とかろうじて頭だけを持ち上げて、燃えるような目でリーリアをにらんだ。
「よし、動かなくなった! あとはジタンが技を発動するまでこの状態が持つかだけど……」
「ジタン、魔力の集中にゃあどのくらいかかりそうなんね」
「はっきりとは言えねぇけど……今まで使ってた溜める系の技より少しかかるぐらいじゃねぇの……?」
『みぃ、具体的にはニターンだ』
お兄ちゃんが即座に教えてくれた。
「うーん結構かかるなぁ。それだと」
ぎりぎりかも、とあたしが続けようとしたそのとき。
「グオォォーーーーッ!!!」
ドラゴンが勢いよく起き上がって耳をふさぎたくなるような雄叫びをあげた。うそ……こんな早く治るなんて! ぎりぎりどころか、これじゃ全然間に合わない……!
「ガァァァァッ!」
ほんの短い時間とはいえ動きを封じられたのが屈辱だったのか、怒りをむき出しにしたドラゴンがリーリアを正面に捉えて爪を振り上げる。
「ひ――!」
幼い顔が、恐怖に歪んだ。
「リーリア!!」
逃げて――そう叫ぶ前に、叩きつけるように凶悪な爪が振り下ろされる。あたしはとっさに両手で顔を覆いかけた。
――ところが。
次にあたしが見たものは、ドラゴンの爪によって倒れるリーリアの痛々しい姿ではなく。
前につんのめるようにして体勢を崩したドラゴンと――薄く立ち上る土煙の中、火が揺れるようにはためく朱色の布だった。
「あ……」
空中で腕を蹴り落としたんだ、と脳が遅れて理解した。
そして言葉の出ないあたしを尻目に……シグレはストンと着地すると、短く息を吐く。
「し、シグレ、ありがと……」
リーリアがふらふらと降りてくる。しかしシグレはその言葉に答えることなくこちらを振り返った。
「ここまで来て、やめましょうよ、しょうもない小細工なんか」
見ると、戦闘時にはいつも浮かべていた自信ありげな薄笑いが、今は消えて真剣な表情になっていた。
「先程の、テル……何でしたっけ? まぁそれが決まれば、このデカブツともおさらばなんでしょう?」
そして、再び背を向ける。身を立て直して、物々しく立ち塞がる巨大な黒い影を真っ向から見据える。
「それならば……ワタクシが、本気で時間稼ぎを致しましょう」
言いながら、両手に持った短剣を握り直した。
「ただし、あまり長くは持ちませんのでお早めにお願いします。……ジタン、これでしくじったら許しませんからね」
「シグレ……」
今までみたいな余裕そうな態度とは違う静かな迫力に、あたしは何も言えなかった。任せたもがんばれも、なんか違う。きっと、黙って頷くのが正解。
「シグレのサポートはわしらがするけぇ、ジタンは気にせんで技の発動に集中しんさい」
「ジタン、がんばって!」
オルフェとリーリアもジタンを挟むように立って、これであたしの目の前にパーティー全員が揃った。おお……なんだかクライマックスって感じ!
「やろう、ジタン! あいつ倒して、クエストクリアしてみんなで帰ろう!」
「あァ……。分かった。シグレ、お前こそ、そう言ったからにはあっけなく倒されんなよ。……じゃ、頼んだからな」
ジタンは大剣を両手に持って足を肩幅に開くと、そのまま目を閉じて集中する。さっきと同じように、大剣に光が集まって、周囲の空気が唸りを上げた。
「グルゥ……」
強大な力を察知したドラゴンが、攻撃を繰り出そうと身をかがめる。
「おっと、アナタの相手はこのワタクシですよ」
そこへコンバットブーツの靴音を響かせて、シグレがドラゴンの正面に立った。ゆっくりと両腕を前方に構えながら、深呼吸するように息を吐き出す。そして、キッと顔を上げた直後――弾丸のごとく飛び出した。
「双刃乱舞っ!」
ドラゴンの目の前からシグレの姿が消えた。次の瞬間、無数のひらめきがその巨体を襲う。
「グギャァアッ!?」
がくんと身をのけ反らせたドラゴンは、視界の隅に現れたシグレに反応して爪を振り下ろした。
それを跳んでかわし、さらにはその腕を駆け上がって顔に痛烈な蹴りを見舞うと、怒り狂ったドラゴンが振り回す爪や尻尾、さらには吐き出される炎をかいくぐりながら短剣をひるがえしてなおも止まらず斬り続ける。
何とかしてシグレを止めたいドラゴンはギザギザに並んだ牙で噛みつこうと口を開きかけるけれど、あごを短剣の柄尻で思い切り殴られてあっさり頓挫。
続く腕を振るう攻撃も空振りして、ガードのなくなった鱗に覆われていない腹部を切り刻まれる結果に終わった。
そしてそれならばと全体重をかけて押し潰そうとしたときにはもうそこにシグレはいない。いつの間に回り込んだのか、背中に上ったシグレは比較的鱗の薄い首の辺りを集中的に狙う。
死角に入られて焦ったか、慌ててドラゴンが羽を広げて振り落とそうとすると、逆にその足場と勢いを利用して高く跳んだシグレが、両足をぴったりきれいに揃えてお得意のジャンピングスタンプを脳天に叩き込んだ。
「はあぁぁぁーーーっ!!!」
走って、斬って、蹴って、跳んで、また斬って。オルフェやリーリアが手を出す隙さえ与えないくらい、すさまじい速さで繰り出される攻撃の連続。あたしはまばたきも忘れて見入っていた。
「す、すごい……」
『双刃乱舞か……あの技をこのタイミングで使うとは大した度胸だ』
お兄ちゃんが感心したように言った。
急にシグレがものすごく強くなった理由は、最初に彼女が放った技にある。これは現時点で覚えている中で火力最強のシグレ自慢の技で、その特徴は攻撃を決めた後もしばらくの間素早さと攻撃力がぐんとアップする、いわゆるバーサク状態になるというもの。
「さすがシグレ、かっこいい!」
「こりゃぁまた腕を上げたのぉ」
すっかり見守る体を余儀なくされたリーリアとオルフェが、素直に称賛の言葉を口にする。これまでの劣勢がウソのように、今や確実にシグレのほうが押していた。ひょっとしてこのまま倒してしまうんじゃないかと思えるくらい。
――ただし、これはとてもリスクの高い技だった。
唐突に、シグレの動きが鈍りだした。表情に焦りが生まれる。まずい、技の効果が切れてきたんだ……!
実はこの双刃乱舞、とても強力な分その反動は大きくて、一旦効果が切れると守備力は半減する上に、しばらくの間全く行動できなくなる。
だから使うタイミングを間違えると、最悪の場合敵は倒せないわ自分はやられるわという結果になってしまうんだ。その危険性のために、あたしはボス戦で、絶対に次の攻撃で倒せると踏んだターン以外、この技を選択したことは一度もなかった。
足払いのように尻尾を一回転させるドラゴンの攻撃を、シグレが後方宙返りでかわす。
しかし着地が乱れて、数歩だけよろめいた。そこにすかさず熱球が飛んでくる。とっさに体を反転させてギリギリで避けるも、夜色の髪の先が少しばかり焼けた。
先ほどとは打って変わって反撃が全く来ないのをいいことに、さらに間合いを詰めて爪を振るうドラゴン。必死にさばくシグレだったけれど、横からの攻撃に反応しきれなかったのか、やや無理やりな姿勢で弾いた。
「……っ!」
体が大きくのけ反る。尻餅をつくのだけはやっとこらえて、前方に転がった。何とかして形勢を立て直そうと切りつけた刃に、もうさっきまでの力強さは見られない。
「くっ……ジタン、まだですか!」
体に無理を言わせて短剣を振るいながらシグレが切羽詰まった声で叫ぶ。あたしも両手を固く握りしめた。早く早く早く、シグレが動けなくなっちゃうよ!
すると――大剣を構えたまま微動だにしなかったジタンが、突如その青い目を開いた。
……準備が、終わったんだ!
それと同時に、ドラゴンの爪がついにシグレを捉えた。
「がっ……!」
背中から床に叩きつけられるシグレ。ドラゴンはそのまま踏み潰してしまおうと片足を上げた。逃げようと必死に床に爪を立てるシグレはしかし、体を震わせるだけでその場から少しも動けない。
だけど――この二人がいる。
「ブラスト!」
リーリアが起こした爆風が、ドラゴンの体を押しやる。その間にオルフェが倒れたままのシグレを救出した。
「ようやった。ようがんばったのぉシグレ。もう大丈夫じゃ」
そしてこちらに向かって走りながら、叫んだ。
「今じゃぁ、ジタン!」
オルフェと入れ替わるようにして、ジタンが地を蹴った。身の危険を感じ取ったか、ドラゴンが連続で無数の火の玉を吐く。
「ハイスピード」
オルフェがシグレを抱えたまま、ジタンに素早さを大きく上げる魔法を掛けた。降り注ぐ火の玉を全てかわし、ジタンはドラゴンへ向かって駆ける。
「あーくそ面倒くせぇ……こちとら早く終わらせて帰りてぇんだよ。これでとっとと決めんぞこの野郎っ!」
――最終奥義には、少々似つかわしくないセリフを吐きつつ。
「シルフウィンド!」
リーリアが放った風の魔法が、ジタンの体を天井近くまで押し上げる。
ジタンは大剣を頭の後ろへ大胆に振り上げた。たちまちその刀身がまばゆい光に包まれて、巨大化する。追い詰められたドラゴンが迎え撃とうと顔を上げ口を大きく開いた。紫の鱗が輝きを増していく。
「いっけぇーーー!!!」
あらん限りの声であたしは叫んだ。
そしてドラゴンが攻撃するよりも早く、ジタンが大剣を渾身の力で振り下ろす――!
「テル・イスレイ!」
邪悪な魔王を討ち滅ぼし、物語をエンディングへと導く伝説の力が、ドラゴンの体を真っ二つに切り裂いた。
<続く>
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