後藤いつき

この頃鯨の様子がおかしい。四頭のうちの二頭が聞きなれない、どうも陸のものらしい言葉を使って話している。

どういうことなのだろうか。

彼ら、その二頭とは共に暮らして十二年と幾月かになるが、こんなことは今までなかった。というか今まで出会ったどの鯨もそんな言葉を使わなかったし、鯨がそういう言葉を使ったという話を誰かから聞いたこともない。

凶兆か吉兆か。

そもそもどこで覚えてきたのか。全くわからない。

仲間も家族も困惑している。婆さんにも尋ねてみたが、やはりわからないという。

あまり心配しても仕方ありません。まあとにかく耳を傾けて集中しましょう。然るべき時がくれば必ず判るものです。今はただいつもそうしているように、彼らの声に集中するのです。

婆さんの話はもっともで、たしかにそうするほかないように思えた。

皆普段のように魚をとったり、舵を切ったり、体を右に左に揺らしたり、そして鯨の声を聞いたりしたが、そうした行動のはしばしにはどこかぎこちなさや、緊張感が滲んでいた。


風の緩い域に入り、そしてそこで長年付き合いのある船と合流して物資や情報を交換した。向こうの船にも鯨の件を話してみたが、やはり誰もそんな話は聞いたことがないということだった。

かねてからの取り決めにより、私の娘があちらの船に行った。父親の誰もがそうであるように、私は彼女を祝福し、泣いた。

祭りが終わって夜、どうしても眠れず甲板に出た。星々の強烈な光が目に染みた。

茫として星を眺めていると、波音に交じってほんのかすかな囁き声が聞こえてきた。よくよく耳を澄まして聞いてみると、あの、陸のもののような言葉だ。声は船側から聞こえてくる。見下ろすと、錆びついた錨の上に私の娘が腰かけている。二頭の鯨とあの言葉で話をしている。

私の視線に気づくと、娘は彼女の生まれた星が見せるのと同じような暗い、暖かな微笑みを投げかけた。私は何も言えなかった。

翌朝、祭りの片づけも済み、とうとう二つの船の離れる時間がやってきた。娘が向こうの船に乗り込み、互いの船がそれぞれの進路に向けて出発しようとしたその瞬間、稲妻に打たれたように私の頭にある考えが閃いた。

もしかして娘は、彼女自身と共に、あの二頭の鯨をも奪っていくつもりなのではないか。

飛ぶようにして船の縁まで行くと、ほとんど海に落ちそうなほどぎりぎりまで身を乗り出して、私は娘の名前を叫んだ。

仲間たちに身体を抑え付けられながら、何度も名前を呼ぶ私を見て、彼女もまた何度も私の名前を呼び返した。その顔には涙と、そしてやはり昨晩見せたあの表情とがかがやいていた。

船と船が離れていくにしたがって、あらゆる方角から種類も大小もさまざまな鯨たちが一帯に集まってきて、海に見たこともないうねりを描き出した。

凶兆か吉兆か。

仲間の一人が尋ねると、婆さんは馴染みのない言葉で二言三言呟いて、船主の先の、おどりくるう水平線の向こうに目をこらした。

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後藤いつき @gotoitsuki

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