第3話 1995年・夏『出逢った頃のように~Every Little Thing~』

仕事帰りの廊下、夕暮れの光が斜めに差し込む中、浩人はコピー機の前で困ったような顔をしていた。


「紙詰まりですか?」と声をかけると、彼は少しだけ驚いた表情で振り返り、


「どうも機械には嫌われてるみたいで」と笑った。


その笑顔に、智恵美の心が静かに波打ったのを、自分でも不思議に思った。


部署も違えば業務も接点は少ない。それでも、昼休みにたまたま出くわす喫煙所や、会議室の隅、給湯室の空気の中で、二人の会話は少しずつ増えていった。


「智恵美さんって、タバコ吸うんですね」


「うん、子ども生んだらやめるって思ってたんだけどね、結局やめられなかった」


「子どもいるんだ…なんか意外」


「そっちも、結婚してると思った」


「俺?独り身。たぶん、ずっとこのままかなって思ってる」


「ふふ、それもまた似合いそう」


そんな他愛ないやりとりの中に、ちいさな親しみと、言葉にできない期待のようなものが混ざりはじめていた。


数日後、昼休みが終わる直前のオフィスで、智恵美はこっそり浩人のデスクに近づいた。


小さく切ったメモ用紙に、自宅の電話番号だけを書いた紙を、書類の間に挟んだ。


「何かあったら」と一言だけ添えて。


彼は驚いたように一瞬彼女を見つめたが、それ以上は何も言わず、そっとその紙を胸ポケットにしまった。


その夜、智恵美の旦那は夜勤の仕事で不在だった。


子どもたちを風呂に入れ、ご飯を食べさせ、布団に寝かせたあと、智恵美はひとり静かなリビングに座っていた。


テレビも消して、明かりは間接照明だけ。ぼんやりとした光の中、電話機の横に置いた缶ビールが温くなっていく。


午後9時半、受話器が突然鳴った。


胸が跳ねる。予感だけで、誰からの電話かがわかった。


手のひらがじんわり汗ばむのを感じながら、ゆっくり受話器を取った。


「もしもし」


『こんばんは、浩人です。こんな時間にすみません。メモ、ちゃんと受け取りました』


「ううん、電話してくれてありがとう。びっくりしたけど、嬉しかった」


そこから、ふたりの会話は不思議なほど自然に始まった。


「浩人くん、いま何してたの?」


『風呂あがって、缶ビール開けたとこ。智恵美さんは?』


「子ども寝かせて、やっと一息。旦那は夜勤でいないから、静かで」


『そっか…なんか、落ち着いて話せる時間だね』


「うん。……ねぇ、ほんとは、メモ渡したときちょっと迷ったの。かけてこなかったら、どうしようって」


『俺も、かけるのめちゃくちゃ緊張したよ。今もちょっとドキドキしてる』


お互いの年のこと、家族の話、好きな音楽や、仕事の愚痴。


テレビ番組の話題から、学生時代の思い出まで。


ふたりの声は、まるで昔からの友人のように交わり続けた。


ふと時計を見ると、すでに深夜0時を過ぎていた。


「えっ、2時間も話してたんだ…」


『ほんとだ。なんか…あっという間だったね』


受話器の向こうから、浩人の笑い声が聞こえる。


その声に、智恵美の心も緩んだ。


「また、話そうね」


『うん、また電話していい?』


「うん。私も、また話したいな」


静かな夜、ほんの少し熱を帯びた心を抱えて、彼女は受話器をそっと置いた。


そのまましばらく、何もできずにソファに座っていた。


カーテンの隙間から差し込む月の光が、リビングのテーブルに柔らかく影を落としていた。


それから数日後。


浩人からの電話は、もう「特別」ではなくなっていた。


一日置きくらいのペースで、彼は決まって夜9時過ぎに電話をくれる。智恵美も、それに合わせるように家事を早めに済ませ、子どもたちを寝かせてから受話器の前に座るのが習慣になった。


その日も、旦那は夜勤だった。


『あのさ、智恵美さん。今週末、夜ちょっと時間つくれる?』


「え?」


『いや、無理だったらいいんだけど……なんか、こうして話してばっかじゃもったいないなって思って。直接会って、いろいろ話したいっていうか…』


「……ふふ、やっと誘ってくれたね」


『え?』


「実は、いつ言ってくれるかなって思ってたの。私も会いたいなって、ずっと思ってた」


『マジで?なんか、嬉しいな』


電話の向こうで、浩人が安堵したように笑った。


「でも…場所、どうしようか。知り合いに見られたら、ちょっと…ね」


『だよね。じゃあ、ちょっと離れた駅のあたりで探してみるよ。落ち着いた居酒屋とか、知ってる店あるから』


「うん、それなら安心かも。土曜の夜なら大丈夫。旦那は連勤で夜勤続きだし、子どもたちもその日は実家に預けられそう」


『ありがとう。無理はしないでね。ほんと、無理しないで』


「無理なんてしてないよ。ただ…浩人くんと話してると、心がふっと楽になるの。だから、会ってみたいって、素直に思っただけ」


一瞬、電話の向こうが静かになった。


そして、ぽつりと浩人が言った。


『じゃあ、土曜。楽しみにしてる』


智恵美は小さくうなずき、電話を切ったあと、ゆっくりと胸に手を当てた。


こんな気持ち、いつぶりだろう。

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