第2話 2023年・春『Hello, Again (昔からある場所)~MY LITTLE LOVER~』


─2023年、春。


「いらっしゃいませ」


ゆるく鳴ったドアベルと同時に、カウンターの奥で声をかける。


もうすっかり慣れた、喫茶店店長としての振る舞い。


けれど、ふとした瞬間に思い出すのだ──“あの夏”の匂いを。


この街は何も変わっていないようで、少しずつ形を変えていく。


チェーン店のカフェが隣にできたり、コロナの影響でここ「cafe ヒロ」の客足もめっきり落ちた。


それでも常連のじいさん連中が競馬新聞を片手に入り浸ってくれるのが救いだった。


「ブレンドでいいですか?」


「……はい。お願いします」


その声にはっとする。


低めの、けれどどこか柔らかさを含んだ女性の声。


浩人が顔を上げた先に立っていたのは、見知らぬ若い女性だった。


長い髪をひとつに結い、シンプルな白いブラウスにジーンズ。


目立つ美人というわけではないけれど、彼女の眼差しは妙に印象に残った。


彼女は頷き、空いているテーブル席に座った。


スマホをいじるでもなく、何かを待つような様子でもなく──ただ、ぼんやりと店内を見渡していた。


浩人は奥のキッチンでコーヒーの準備をしながらもう一度彼女の方に目をやった。


──誰かに、似ている。


それが誰なのかは、すぐには思い出せなかった。


でも、遠い記憶の引き出しが軋みをあげながら、開こうとしていた。


「この店、昔からありますよね?」


コーヒーを運んだ浩人に、彼女がふと尋ねた。


まっすぐに見上げる瞳の奥には、微かな探るような色。


「ええ、もう…20年以上はやってますね。最近になってわたしがやり始めましたがね」


「そうなんですね。私の…母が、たぶん、昔このあたりに住んでたと思うんです。ここに、来たことがあるかもしれなくて」


「お母さん?」


彼女はコーヒーに口をつけたあと、ぽつりと呟くように言った。


「名前は、オカザワって言います──たぶん、昔このあたりで働いてたんだと思います。1995年とか、そのくらいに」


心臓が、ひとつ打ち損ねたような感覚。


何かが、いま確かに動いた。


「……そうですか」


浩人はそれ以上、何も聞けなかった。


でも、頭の奥で、あの名札の文字が蘇っていた。「オカザワ チエミ」──1995年の夏、確かにそこにいた彼女の姿とともに。


けれど、今日会った若い女性──彼女の名前を聞けなかったその人影が、今夜は妙に頭から離れなかった。


ベッドに入っても、眠れそうにない。


あの頃の自分を、もう誰も知らない。


でも、あの名前を口にしたあの子だけは──何かを知っていた。


いや、何かを探していた。

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