第4話 1995年・夏『True Love〜藤井フミヤ〜』

土曜の夜、久しぶりに厚い雲が空を覆っていた。


昼間の熱気がまだ街にこもっていて、夜風も生ぬるい。


それでも、智恵美の頬に当たる風は心地よく、心の奥を少しずつほどいていくようだった。


「この店、雰囲気いいね」


浩人が言ったのは、小さな路地裏にある古びたスナック。


若い客はほとんどいないが、ママが明るくて居心地がいい。


智恵美の職場の先輩に教えてもらった店で、今夜はここに来ようと智恵美から誘った。


ふたりでビールを2本、焼酎を少し飲んだ頃には、もう会話が止まらなくなっていた。


「でも、さ。浩人くんって、ほんとに30なの?もっと若く見えるよ」


「よく言われる。でも、智恵美さんも“さん”って言いたくないくらい、話しやすい」


「じゃあ、呼び捨てでいいよ。こっちも“くん”やめるから」


そんな軽口を交わしながら、時間はあっという間に過ぎていった。


店を出ると、街はすっかり深夜の顔をしていた。ネオンは所々でまばらに灯っているが、駅前の人影は少なくなっていた。どこか寂しく、それでいて自由な時間。


「ねぇ、もうちょっと歩かない?」


「うん、俺もこのまま帰るの、もったいない気がする」


並んで歩きながら、ふたりは中学や高校の頃の話をした。


好きだったテレビ番組、初めて買ったCD、流行ったファッション…お互い同じ時代を生きてきたことが、言葉の端々ににじむ。


「浩人くん、学生の頃ってどんな夢があった?」


「俺、バンドやってたんだ。ギターと作詞も少し。でもさ、結局、就職して普通になった」


「普通ってさ、誰が決めるんだろうね。私、そんな話、もっと聞きたい」


そのときだった。


小さな公園の隅、錆びたフェンスの裏に、埃をかぶった一台の自転車が目に入った。


「ちょっとアレ、使えるかな?」


浩人が言う前に、智恵美が駆け寄っていた。


「タイヤ、ギリギリいけそう。浩人、漕いでよ」


「マジで? 智恵美、後ろ乗れる?」


「任せて。子ども三人いるんだから、バランス感覚はバッチリ」


笑いながらふたりで跨がり、夜の街を走り出す。


最初は少しふらついたが、やがてリズムが合ってきた。


風が頬を撫で、街の灯りが後ろへと流れていく。


目指したのは河川敷の土手。そこに着いた頃には、ふたりとも汗をかいていた。


自転車を降りて芝に寝転がる。


「浩人、曲作ってたって言ってたけど、歌詞ってどうやって浮かぶの?」


「こういう夜がヒントになるんだよ。


たとえば…♪錆びたチャリで走る夜、となりには君がいて♪…とか?」


「それ、いいかも」


「じゃあ、歌にする?…♪となりには智恵美がいて♪…って」


「ばか」


ふたりはしばらく黙って、星の見えない夜空を見上げていた。


遠くで新聞配達のバイクの音がして、夜が明けはじめているのを知らせていた。


「朝だね」


「うん。帰ろうか」


朝方、駅に向かって歩くふたりの足取りは、夜のはしゃぎとは打って変わって静かだった。


でも、心の中には確かに何かが芽生え始めていた。


ふたりとも、そのことを口に出すことはなかったけれど。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る