第1話 1995年・出会い『ロビンソン~スピッツ〜』


──1995年、夏。名札には「オカザワ チエミ」と書かれていた。


扇風機の回る音と、ラジオから流れるスピッツの「ロビンソン」。


物流センターの朝は、いつもそんな風に始まった。


「おはようございます…」


カラカラと自転車の音がして、制服姿の女が事務所の扉をくぐった。


黒髪を後ろでひとつにまとめ、前髪をきれいに整えた顔には、ほんの少し疲れたような笑みが浮かんでいた。


胸元の名札にはカタカナでこう書かれていた。


「オカザワ チエミ」


主人公──仲 浩人(なか ひろと)はその名前を目で追いながら、なぜかその響きに引っかかりを覚えた。


それは、直感に近いものだったのかもしれない。


彼女は数日前に入ったばかりのパート職員だった。


仕事内容は、メール便の配達。新聞受けやポストに投函する小荷物のルート配送で、暑さとの戦いでもある。


1995年の夏はとにかく暑かった。エアコンのない仕分け場で汗をかき、荷物を積んだカブにまたがり、各町を走る。


決して華やかではない、けれど街の暮らしを陰で支える仕事だった。


「チエミさん、今日もBルートです。水分、多めに持ってってくださいね」


彼女は「はい」と小さくうなずいて、笑顔を見せた。


どこか影のあるその笑顔に、浩人は少しだけ胸をざわつかせた。


結婚してるらしい


子どもがいるらしい


夜の仕事をしていたことがあるとかないとか


そんな噂が所内にささやかれ始めたのも、その週の終わり頃だった。


でも浩人は、それを信じるでもなく、否定するでもなく、ただ彼女の働く姿を見つめていた。


あれが、すべての始まりだった。


あとから思えば、どうしてあのとき目を逸らさなかったのか


でも、たとえ時間を巻き戻せたとしても、


彼はやっぱり、あの笑顔に心を奪われていただろう。


まだポケベルが主流で、携帯電話なんて持ってる人の方が少なかった時代。


電車の窓から見る景色は、まだどこかのんびりとしていた。


けれど、確かにあの夏、彼の人生は静かに軌道を逸れはじめた。


それは罪だったかもしれない。


でも、愛だったと思いたい。


夏の陽差しが痛く差し込む午後、コピー機の前で偶然すれ違った。


「これ、お願いできますか?」


彼女は小さく笑って、コピー用紙とメモを手渡してきた。


メモには、手書きでこう書かれていた。


“話があります。夜の20時以降に電話して。”


まだ携帯が一般的ではなかったあの頃。家電の受話器を持つ手が震えたのを覚えている。


この夜から、僕の時間は彼女の重力に引き寄せられていった。


そして今──2021年。


俺の前に現れた、あの笑顔によく似た「誰か」によって、物語は再び動き出す。

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