LOVE SONG

中原克宏

プロローグ

◆プロローグ◆

――1997年の冬


あの日の記憶は、今でも色濃く心に焼き付いている。


街はクリスマスの飾りが少しずつ出始める時期。


イルミネーションが飾ってある木々の中、彼女は少し微笑んで、何も言わずに手を振った。


俺は、それが永遠の別れになるなんて思ってもいなかった。


あれから、もう30年近くの時が流れた。


55歳になった今も、俺の心はあの夏に置き去りのままだ。


誰とも結婚せず、ただ時間だけが過ぎていった。


最近になって、夢に彼女がよく出てくるようになった。


夢の中で、彼女はあの頃と何も変わらず、優しく笑っている。


目が覚めたあと、胸の奥に残るのは、どうしようもない空虚感と後悔。


そして今。


人を本気で愛したのは、人生でたった一度きりだった。


その恋は、許されない関係だった。


お互い25歳、同い年。


彼女は既婚者で、僕は独身。


彼女には3人の子供がいた。


最初は軽い気持ちだったのかもしれない。


でも、気がつけば深みに沈んでいた。


どちらからともなく求め合って、どちらからともなく心を委ねていた。


だけど、僕は彼女を傷つけた。


傷つけていることすら気づかずに、独占しようとして、自分の思いだけを押しつけていた。


それが「愛」だと信じて疑わなかった。


彼女が泣いた夜がある。


理由を聞いても、何も言わなかった。


ただ、背中を向けて小さく震えていた。


あのとき、抱きしめていたら


あのとき、なにも言わず手を取っていたら


30年経った今も、その後悔だけが胸の奥でくすぶっている。


まるで彼女の呪いにかかってるみたいに。


目を覚ましたのは、春の朝だった。

窓から春の風が入り込んで来た。


ヒンヤリとした冷たさで目覚めた。

小さな喫茶店の裏手にある部屋。隣には誰もいない。


今は恋人である美月とは、一緒に暮らしているが、彼女はこの数日間、実家に帰っている。


机の上にはパートナーの水月(みづき)が置いた手紙があった。


「明日は母の介護で実家に帰ります。3日ほど不在です。夕食は冷蔵庫にあります。お店、無理しないでね」


10年付き合っている水月は、彼にとって「穏やかな日々」の象徴だ。


テレビでは誰かの不倫騒動が取り上げられていた。


「昔は…バレなきゃOKみたいな時代だったのにな」


浩人はひとりごちて、消したリモコンをソファの上に放った。


あと30分でお店を開けないといけない。


簡単に身支度を始めた。


浩人はお店を開ける準備をはじめた。


お昼の忙しいさからひと段落ついた14時頃「cafeヒロ」の前にひとりの20代前半くらいの女性がお店に入ろうとしていた。



春の風が吹いていた。


だがその風は、瑞希にとってどこか秋のように感じられた。ひんやりと頬を撫で、記憶の奥底をくすぐってくる。歩道の先に、目的の店が見えた。古びた木の看板と、色あせた緑のテント。


「Coffee ヒロ」


その名を見つけた瞬間、瑞希の心臓が小さく跳ねた。

この場所に辿り着くまで、どれだけの時間がかかっただろう。


母が遺した1枚の写真。「仲浩人」という名前。ネットで検索しても、まるで情報はなかった。だけど、偶然たどり着いたひとつのブログの写真に、この喫茶店が写っていた。

あの日の記憶のように、ぼんやりと、でも確かにそこにあった。


扉の前に立ち、瑞希は深呼吸をする。

ガラス越しに見えるのは、静かな店内と、カウンターの奥に立つ男の姿。


「……行こう」


自分に言い聞かせるように、小さく呟く。

そして、重たいドアを押した。


カラン。


乾いたベルの音が、静かな午後に響く。

瑞希の鼻腔を、懐かしい香りが包んだ。コーヒー豆、少し古い木の香り、本棚に並んだ雑誌の紙のにおい。まるで時間が止まっているような空間。

カウンターの奥で、男が新聞をたたみ、こちらを向いた。


ゆっくりと顔を上げるその仕草に、瑞希の息が止まる。


「いらっしゃいませ」


低く落ち着いた声。


優しいけれど、どこか疲れているような、長い時間を背負ったような声だった。


この人だ。


母の話に出てきた人、アルバムの隅に書かれていた名前。


きっと、間違いない。

だが、瑞希の口から言葉は出なかった。

名乗ることもできなければ、探していた理由も言えない。


「……こんにちは。ひとりです」

それだけが、精一杯だった。

「はい、どうぞ。お好きな席に」

男は静かに言い、湯気の立つポットを持ち上げる。


その動作がどこか懐かしい。瑞希の記憶にあるものではない、けれど体の奥に刻まれているような仕草。


「ブレンドでいいですか?」


「……はい。お願いします」


その答えもまた、母と同じだった。

母が言っていた——「あの人の淹れるブレンドは、人生でいちばんおいしかった」


その言葉を思い出しながら、瑞希はカウンターに視線を落とす。


男の名前は、仲浩人。


母が20代の頃、短い間だけ一緒に過ごしたという、たった一度きりの恋人。

瑞希は、自分が“その恋の結果”だと、数年前に知った。


母がほんの少しだけ語った「後悔と愛」の記憶。

それが、今日ここに来た理由だった。

カウンター越しに、コーヒーの香りが立ち上がる。


深く、香ばしく、そしてどこか切ない香り。

瑞希の心の奥に、じんわりと沁みていく。

この人は、きっとまだ知らない。


母が旦那に内緒でひとりで子どもを産み、4人の子供を育て、そしてその一人の子どもが今日、ここまで来たことを。


だが、、、


それでいいのかもしれない。

今すぐ名乗る必要は、ないのかもしれない。

瑞希はゆっくりとカップに手を伸ばし、コーヒーをひと口飲んだ。


少し熱くて、少し苦くて、それでもどこか懐かしい味がした。


——まるで、まだ知らない父の記憶のように。

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