第一章 キャベツの誕生 〜2054年〜

 晴れ渡った日曜日の午後、多摩中央公園は家族連れで賑わっていた。五月の穏やかな陽光が木々の間から降り注ぎ、子どもたちの歓声が空に舞い上がる。

 「ねえ見て、あれがキャベツハウスよ」

 澄んだ声が、公園の片隅に立つ建物に向かって投げかけられた。三十代半ばの女性、中村陽子が、五歳の娘・美咲の手を引きながら、透明なドーム型の建物を指さしている。

 キャベツハウスと呼ばれるその建物は、公園の東側に堂々と佇んでいた。透明なガラスのようなドームは朝日を浴びて輝き、内部には無数のキャベツが整然と並べられていた。一見すると巨大な植物工場のようだが、単なる野菜工場ではない。それぞれのキャベツは小さな命を宿していたのだ。

 「あの中で赤ちゃんが育ってるの?」

 美咲は大きな瞳を丸くして尋ねた。彼女の声には好奇心と不思議さが入り混じっていた。

 「そうよ。ママのお腹の中じゃなくて、あのキャベツの中で」

 陽子は優しく微笑みながら答えた。しかし、その目には何か複雑な感情が浮かんでいた。

 「わたしもキャベツから生まれたの?」

 美咲の純粋な問いに、陽子は一瞬言葉に詰まった。

 「いいえ、あなたはママのお腹から生まれた天然ベイビーよ」

 陽子は少し気まずそうに答えた。「天然ベイビー」という言葉が彼女の口から出るとき、少しだけ躊躇いがあった。この数年で急速に市民権を得始めたその言葉。これは当然「キャベツベイビー」と区別するための言葉だった。

 美咲はキャベツハウスを凝視したまま、首を傾げた。

 「キャベツから生まれた子と、お腹から生まれた子は違うの?」

 子どもらしい素朴な疑問だが、それは現代社会が直面する最も根源的な問いの一つでもあった。陽子は娘の頭を優しく撫でながら、言葉を選んで答える。

 「基本的には同じよ。どちらも大切な命だから」

 そう言いながらも、陽子の視線は公園の広場に向けられていた。そこではキャベツベイビーの家族と、天然ベイビーの家族が、微妙な距離感を保ちながら遊んでいる。よく見ると、子どもたちは互いに交わることなく、それぞれのグループで遊んでいた。大人たちもまた、暗黙の了解があるかのように、二つのグループに分かれて談笑している。

 キャベツベイビー技術が一般に普及し始めてまだ数年しか経っていなかったが、すでに社会は変わり始めていた。当初は不妊に悩む夫婦や同性カップルのために開発されたこの技術は、すぐに「出産の負担から解放される」という魅力的な選択肢として、健康な異性カップルにも広がり始めていた。

 「おかあさん、ブランコ行きたい!」

 美咲の声に我に返った陽子は、複雑な思いを胸の奥にしまい込み、娘の手を引いてブランコの方へ歩き出した。


 キャベツハウスの管理責任者・佐藤明子は、透明なドームの中を巡回していた。四十歳を少し過ぎた彼女は、白衣を着てタブレットを片手に各キャベツの状態を確認している。

 「6番、7番エリアの温度調整を0.2度上げてください」

 彼女の指示に従い、若い男性スタッフがコントロールパネルを操作した。

 「佐藤さん、23番の赤ちゃんの心拍がやや不安定です」

 別のスタッフが報告してきた。明子は足早にその区画へ向かう。モニターには確かに不規則な波形が表示されていた。

 「栄養供給を5パーセント増やして、母体DNAドナーに連絡を」

 冷静な判断と迅速な対応。それがキャベツハウスで働く者の責務だった。彼女の言う「母体DNAドナー」とは、一般的には「母親」と呼ばれる存在だ。しかし、キャベツベイビーの世界では、言葉の定義さえも変わりつつあった。

 明子は23番キャベツの前に立ち、その中に宿る小さな命を見つめた。人工的に作られた半透明の葉の間から、小さな胎児の姿が見える。まだ五ヶ月ほどだが、すでに人間の形をはっきりと認めることができた。

 「あなたも頑張っているのね」

 彼女は小さくつぶやいた。科学者としての冷静さと、一人の女性としての感情が入り混じる瞬間だった。明子自身は生涯独身を貫き、子どもを持つことはなかった。すべての情熱をこの技術の発展に注いできたのだ。

 「佐藤さん、15分後に鈴木夫妻がお見えになります」

 受付のスタッフから連絡が入った。明子はタブレットで時間を確認し、頷いた。

 「了解です。案内室を準備してください」

 今日は新しいキャベツベイビーの「種付け」の日だった。DNAを提供する両親が訪れ、儀式のような時間を過ごしてから、一滴ずつ血を垂らす。人間の心理的側面を考慮した結果、このようなセレモニーが定着したのだ。

 明子は再び23番キャベツを見つめ、小さくため息をついた。

 「私たちは正しいことをしているのだろうか」

 その問いかけに答えるものは、静かに育ちゆく命の鼓動だけだった。


 「ねえ陽子、真剣に考えてみない?」

 夕食後のリビングで、陽子の夫・健太郎が持ち出した話題に、彼女は眉をひそめた。

 「何を?」

 「二人目をキャベツベイビーで持つことだよ」

 健太郎は真剣な表情で言った。彼は大手IT企業に勤める三十六歳のエンジニアで、常に最新技術に関心を寄せる男性だった。

 「あなた、またその話?」

 陽子は皿を片付けながら、少し疲れた声で返した。

 「今日も公園でキャベツハウス見てきたんだけど、もう随分一般的になってるみたい。私の会社の同僚もキャベツベイビーを選んだ人が何人もいるわ。でも子供を持つことがそんなに簡単でいいのかなって思うのよ」

 「それはわかってるよ。でも陽子、冷静に考えてみよう。君は美咲を出産したとき、どれだけ大変だったか。つわりで三ヶ月苦しんで、出産で命の危険すら感じて」

 「でも、それが自然なことでしょう」

 「"自然"が常に最良とは限らないよ。現代医学の発展は、まさに自然の限界を超えるためにあるんだ」

 健太郎の言葉に、陽子は手を止めた。彼の主張は間違いではない。美咲を身ごもったとき、彼女は重度のつわりに苦しみ、仕事を三ヶ月休まざるを得なかった。さらに出産は難産となり、彼女はほぼ二日間の陣痛を経験した。医師からは「次の出産はもっと危険かもしれない」と言われていたのだ。

 「私は…まだわからないわ」

 「焦らなくていいよ。ただ、選択肢として考えておいてほしいんだ」

 健太郎は優しく陽子の肩に手を置いた。彼は決して悪い夫ではない。むしろ思いやりがあり、家族のことを第一に考える男性だ。だからこそ、陽子は複雑な思いを抱えていた。

 リビングの隅では、美咲が人形遊びに夢中になっていた。彼女は小さな人形をやさしく抱きかかえ、「お腹の中にいる赤ちゃんだよ」とつぶやいている。その純粋な遊びを見ながら、陽子は自問した。

 「私たちは何を自然と呼び、何を人工と定義するのだろう」

 その問いは、彼女だけでなく、今の社会全体が直面している問いでもあったのだ。


 東京・永田町の国会議事堂に隣接する特別会議室では、緊張感に包まれた議論が行われていた。

 「では、本日のキャベツベイビー技術審議会を始めます」

 議長を務める山田衆議院議員の声が厳かに響く。超党派の議員たちが集まった特別委員会は、今日も熱い議論の場となっていた。議題は「キャベツベイビー技術の倫理的問題と法整備について」だった。

 「現在、月に約5,000人のキャベツベイビーが誕生しています。このペースでいくと、年内には国内出生数の10%がキャベツベイビーになると予測されています」

 厚生労働省の担当者・川島が報告する。彼の声は淡々としていたが、提示されたグラフは急激な右肩上がりを示していた。会場からは小さなどよめきが上がる。

 「問題は単に数だけではありません。一部の富裕層では、複数のキャベツベイビーを同時に育成するケースが報告されています。また、シングルによるキャベツベイビー出産も増加しています」

 川島の言葉に、会場の空気が変わった。何人かの議員が身を乗り出す。

 「どういうことですか? 同時に複数の子どもを持つということですか?」

 野党議員の一人が食い入るように質問した。

 「はい。最も極端な例では、一組の夫婦が同時に四人のキャベツベイビーを育成しているケースがありました。四つ子を自然出産するのと同じことですが、母体へのリスクがない分、躊躇なく行われています」

 「それは…」

 言葉を失う議員たち。しかし、与党の女性議員・田中が静かに手を挙げた。

 「しかし、これは不妊に悩む方々にとって福音ではないでしょうか」

 彼女の発言に、数人の議員が同意の表情を見せる。

 「確かにその通りです。しかし現在の問題は、健康な女性がキャリアの中断を避けるために自然妊娠を放棄し、キャベツベイビーを選択する傾向が強まっていることです」

 川島の冷静な指摘に、再び会場が静まり返った。

 「それは個人の選択の問題ではないでしょうか」

 田中議員が重ねて発言する。彼女自身も二人の子どもを持つ母親だが、両方とも帝王切開での出産だった。彼女にとって、出産方法の選択は個人の自由の象徴だった。

 「ですが、人間の出産というプロセスが完全に技術化されることの社会的・倫理的影響は計り知れません。また、キャベツベイビーと天然ベイビーの間で社会的差別が生じかねないという懸念もあります」

 今度は文部科学省の代表が発言した。彼の言葉に、多くの議員が考え込む表情を見せた。

 「具体的な学校現場での事例はありますか?」

 別の議員が質問した。

 「はい。まだ散発的ですが、小学校低学年の児童間で『あなたはキャベツから生まれたの?お腹から生まれたの?』といった質問から始まるいじめの事例が報告されています」

 「しかし、それは新しい技術が導入されるときの一時的な混乱ではないでしょうか。自動車が登場したとき、馬車を使う人々との間で軋轢があったように」

 テクノロジー推進派の議員が反論する。

 議論は白熱した。キャベツベイビー技術を規制すべきか、それとも促進すべきか。個人の自由と社会的影響のバランスをどう取るべきか。倫理的観点と実用的観点はどう調和させるべきか。

 結局、この日の会議では結論は出なかった。ただ一つ明らかだったのは、キャベツベイビー技術が社会に与える影響は予想以上に大きく、速いということだった。

 山田議長は重い口調で会議を締めくくった。

 「継続審議とします。次回までに各省庁はさらに詳細なデータを用意してください。我々は歴史的な分岐点に立っていることを自覚しなければなりません」

 会議室を後にする議員たちの表情は様々だったが、誰もが深い思索に沈んでいるように見えた。


 化粧品大手「ミラクルビューティー」の本社ビル、十八階の会議室は華やかな雰囲気に包まれていた。

 「松本さん、おめでとうございます!」

 華やかな声が部屋中に響き渡る。十人ほどの女性社員が、一人の女性—松本美咲を取り囲んでいた。彼女はキャベツベイビーの「出産」を終え、わずか1週間で職場復帰していたのだ。

 「ありがとうございます。女の子でした。名前は花と付けました」

 松本美咲は三十二歳、マーケティング部の中堅社員である。常に完璧なメイクと洗練されたファッションで通す彼女は、今日も疲れを微塵も感じさせない笑顔で同僚たちに応えていた。

 「写真見せてもらってもいい?」

 同僚の一人が興味津々で尋ねた。美咲はすぐにスマートフォンを取り出し、愛らしい赤ん坊の写真を見せた。ピンクの肌、かわいらしい顔立ち。どこからどう見ても普通の赤ちゃんだった。

 「まあ、可愛い!」 「本当に綺麗な顔立ちね!」

 歓声が上がる。美咲は満足げに微笑んだ。

 「すごいわね。お腹が大きくなることも、出産の痛みも経験せずに、こんな可愛い赤ちゃんが持てるなんて」

 三十代後半の女性社員が羨望の眼差しで言った。

 「そうなのよ。9ヶ月間、会社のプロジェクトにも集中できたし、体型も崩れなかった。まさに現代女性の理想よね」

 美咲は満足そうに微笑んだ。彼女の言葉には少しの誇りが混じっていた。

 「費用はどれくらい?」

 若い女性社員が小声で尋ねた。

 「基本プランで三百万円くらい。でも私は最高級プランを選んだから、五百万円ほどかかったわ」

 「そんなに!」

 若い社員が驚きの声を上げた。

 「でも考えてみれば、妊娠中の体調不良や出産でのダメージ、そして何より九ヶ月もの時間と労力を考えれば、安いものよ。特に私たちのような仕事をしている女性にとっては」

 美咲の言葉に、多くの女性社員が納得の表情を見せた。化粧品業界はトレンドの移り変わりが早く、長期休暇をとることでキャリアに大きな影響が出ることは周知の事実だった。

 「彼氏とはどうなの?」と別の同僚が尋ねた。

 「彼も血を提供してくれただけで、育児は私がメインでやることになってるわ。週末に会いに来てくれるから、それで充分」

 美咲はさらりと答えた。彼女と彼氏は同棲しておらず、それぞれ別々の生活を送っている。キャベツベイビーという選択肢があることで、彼らの関係は従来の「家族」の概念とは異なるものになっていた。

 「そういえば、先月うちの社員に生まれたキャベツベイビーは何人だったの?」

 話題が変わり、別の社員が尋ねた。

 「先月は七人よ。今月は五人の予定。うちの会社、キャベツベイビーに特に積極的だからね」

 「そりゃそうよね。社長自身が『美しさと母性は両立する』ってモットーを掲げてるんだもの」

 確かに、ミラクルビューティーの女性社長は「美しさと母性は両立する」というメッセージを発信し続け、キャベツベイビー技術の積極的な支持者として知られていた。

 美咲は同僚たちの質問に応じながらも、ふと窓の外に目をやった。三十階建ての高層ビルからは東京の街が一望できる。そして、遠くに見える公園の一角に、キャベツハウスのドームが太陽の光を反射して輝いていた。彼女の娘・花が育った場所だ。

 複雑な思いが一瞬だけよぎったが、すぐに彼女はそれを振り払った。これが現代のキャリアウーマンの選択なのだ。そして彼女はその選択を誇りに思っている—少なくとも、そう信じようとしていた。


 「天然ベイビーは原始的だって、友達が言ってたよ」

 小学校の教室で、10歳の男の子、健太が友人に話していた。休み時間、彼らは教室の隅で小さな声で会話をしていた。

 「僕はキャベツベイビーだから、計画的に生まれたんだって。でも天然ベイビーは、偶然の産物なんだって」

 健太は少し自慢気に言った。彼は小柄だが知的な顔立ちをした少年で、成績は常にクラスでトップだった。

 「そんなことないよ!」

 隣の席の女の子、麻衣が反発した。彼女は天然ベイビーだった。活発で明るい性格の麻衣は、つい先日まで健太と仲良く遊んでいたのだが、最近は少しぎくしゃくしていた。

 「私だって、パパとママが望んで生まれたんだよ!」

 彼女の声は少し震えていた。

 「でも、きみのママは妊娠中に体調悪くなったでしょ?  僕はママを苦しくさせなかったよ。それに科学的に最適な状態で僕は育ったんだよ」

 健太は少し得意げに言った。実は彼の両親は彼が生まれる前にこの会話を想定し、彼に「あなたは特別な方法で生まれたのよ」と教えていた。それが彼のアイデンティティの一部となっていたのだ。

 「だから何?  私はママのお腹の中で育ったから、ママとずっと一緒だったんだよ。あなたはキャベツの中だけで育って、それでいいの?」

 麻衣の反論は彼女なりの論理的なものだった。彼女も両親から「あなたはママのお腹の中で育った特別な子」と教えられていたのだ。

 二人の口論に、担任の先生が気づいた。

 「健太くん、麻衣さん、何を話しているの?」

 三十代半ばの女性教師・高橋先生が穏やかな声で尋ねた。彼女は教師として十年以上のキャリアがあったが、この数年間で子どもたちの間に新たな対立軸が生まれていることに困惑していた。

 二人は黙った。健太は自分の席に戻り、麻衣は窓の外を見つめた。先生はため息をついた。最近、クラスではキャベツベイビーと天然ベイビーの対立が目立ち始めていた。

 「みんな、授業を始めるよ」

 先生は明るい声で呼びかけた。表面上は何事もないように振る舞ったが、彼女の胸の内は複雑だった。

 放課後、職員室では緊急の会議が開かれた。

 「子供たちの間で出自による差別が広がっています。キャベツベイビーと天然ベイビーの対立は、今後さらに深刻になる可能性があります」

 校長は深刻な面持ちで言った。彼は六十代のベテラン教育者だが、このような問題は初めての経験だった。

 「今朝も、五年生の男子が『キャベツから生まれた人工児』と呼ばれていじめられる事案がありました」

 別の教師が報告した。

 「逆に、一部のキャベツベイビーの児童が『自分たちは科学的に優れている』と天然ベイビーの児童を見下す発言をするケースも増えています」

 高橋先生も自分のクラスでの観察を共有した。

 「私たち教育者として、どう対応すべきでしょうか」

 校長の問いかけに、誰も即答できなかった。これは人類が初めて直面する問題だったのだ。

 「まずは『生まれ方による区別をしない』という方針を明確にするべきでしょう」

 若手教師が提案した。

 「それは理想論です。現実には子供たちは既に区別し始めています。そして問題なのは、彼らがそうした考えを家庭から持ち込んでいることです」

 ベテラン教師の指摘に、会議室は沈黙に包まれた。確かに、子どもたちの価値観は家庭で形成される部分が大きい。学校だけで解決できる問題ではなかった。

 「保護者会で議題に上げるべきかもしれません」

 高橋先生が静かに言った。

 「しかし、それが新たな対立を生むことにもなりかねません」

 校長は頭を抱えた。

 結局、その日の会議でも具体的な解決策は見出せなかった。教師たちは重い足取りで職員室を後にした。

 高橋先生は自分の机に戻り、窓の外を見つめた。校庭では子どもたちがまだ遊んでいる。よく見ると、やはりそこにも微妙なグループ分けがあった。それは単なる男女の分かれ目ではなく、別の何かで区切られていたのだ。

 彼女はふと、自分の教師としてのキャリアで直面した最も難しい課題かもしれないと感じた。そして同時に、この問題が教育現場だけの問題でないことも痛感していた。社会全体が直面している大きな変化の波の一部に過ぎないのだ。


 キャベツハウス創設者の一人である田中博士は、研究室で最新のデータを分析していた。六十を過ぎた彼の額には深い皺が刻まれているが、その眼差しは若々しく、知的好奇心に満ちていた。

 「田中先生、第三世代キャベツの成長データです」

 若い研究員が資料を持ってきた。

 「ありがとう、見せてごらん」

 田中博士は眼鏡の奥から鋭い目で資料に目を通した。

 「胎児の脳の発達が通常より15%速い…これは予想以上だ」

 「はい。第二世代と比較しても明らかな向上が見られます」

 「栄養供給システムの改良が功を奏したようだね」

 田中博士は満足げに頷いた。キャベツベイビー技術は急速に進化していた。第一世代は単に「子宮外で胎児を育てる」という基本機能だけだったが、第二世代では「最適な環境での育成」が実現し、第三世代では「積極的な能力向上」まで視野に入れていた。

 「しかし、先生…これは倫理的に問題ないのでしょうか?」

 若い研究員が恐る恐る尋ねた。彼も優秀な科学者だが、キャベツベイビー技術がもたらす社会的影響に不安を感じていた。

 「倫理的に?」

 田中博士は椅子から立ち上がり、窓際へ歩いた。研究所の窓からは東京湾が見渡せる。

 「科学の歴史を振り返ると、あらゆる革新的技術は最初は倫理的論争を引き起こしてきた。体外受精、クローン技術、遺伝子編集…すべてそうだ。しかし、それらが人類に恩恵をもたらしたことも事実だ」

 「でも、人間の誕生プロセスそのものを変えてしまうことは…」

 「考えてみたまえ。医学の発展は常に『自然』を変えてきたんだ。天然痘のワクチン、抗生物質、臓器移植…すべて『自然』の限界を超えるものだった。キャベツベイビー技術も同じだよ」

 田中博士の声は熱を帯びていた。彼にとって、この技術は単なる科学的革新ではなく、人類の進化の次のステップだったのだ。

 「しかし、社会の分断が…」

 「一時的なものさ。かつて『試験管ベビー』と呼ばれた体外受精児も、今では完全に社会に溶け込んでいる。同じことがキャベツベイビーにも起こるだろう」

 博士はそう言いながらも、目に見えない不安を抱えていた。彼の予想をはるかに超えるスピードで技術が普及し、社会に浸透していることに戸惑いを感じていたのだ。

 「次の研究会議では、第四世代の展望について議論したい。より高度な知能、より強い免疫力、より長い寿命…」

 「それは…人為的な人類の二極化を招くのではないでしょうか」

 若い研究員の声は震えていた。

 田中博士は長い沈黙の後、静かに答えた。

 「おそらくそうなるだろう。しかし、それが進化というものだ。何千年もの間、人類は自然選択に委ねてきた。今や我々は自らの手で進化を操る力を得た。その責任から逃げるわけにはいかない」

 研究室に重い空気が流れた。窓の外では、夕暮れの東京湾に船の灯りが浮かび始めていた。


 広々とした高級マンションのリビングで、松本美咲は娘の花を抱きながら、テレビのニュースを見ていた。

 「現在、国会では『キャベツベイビー規制法案』の審議が進められています。この法案は、一人の親が同時に持てるキャベツベイビーの数を制限し、また未成年のシングルマザーによるキャベツベイビー出産を禁止する内容を含んでいます」

 アナウンサーの声に、美咲は眉をひそめた。

 「余計なお世話よね」

 彼女は小さくつぶやいた。花はその腕の中で平和な寝息を立てている。生まれてまだ一ヶ月の彼女は、世界が自分の誕生をめぐって大きく揺れていることを知る由もない。

 チャイムが鳴り、美咲はドアを開けた。そこには彼女の母親・和子が立っていた。

 「お母さん、来てくれたのね」

 「ええ、孫の顔が見たくてね」

 和子は六十代前半の女性で、典型的な日本の祖母という雰囲気だった。彼女は玄関を入るなり、花の顔を覗き込んだ。

 「まあ、本当に可愛い子ね」

 和子は微笑んだが、その笑顔には少し緊張が見え隠れしていた。

 「お茶を入れるわ」

 美咲は花を和子に預け、キッチンへ向かった。和子は初めて孫を抱き、その小さな顔をじっと見つめた。

 「本当に…あなたにそっくりね」

 和子の声は少し震えていた。

 「母さんと初対面だから、まだ警戒してるわね」

 美咲はお茶を持ってリビングに戻った。

 「いいのよ、赤ちゃんはみんな最初はそうだもの」

 二人は静かにお茶を飲みながら、花を見守った。しばらくの沈黙の後、和子が口を開いた。

 「美咲、あなたの選択を批判するつもりはないの。でも…」

 「でも?」

 「私はあなたがお腹の中にいたとき、毎日話しかけていたの。あなたが蹴ったとき、感動で泣いたわ。そんな経験をあなたがしないことが、少し寂しいと思ってしまうの」

 和子の言葉に、美咲は黙ってしまった。彼女は母親の気持ちが理解できないわけではなかった。しかし、彼女には彼女の選択があったのだ。

 「お母さん、時代は変わってるの。私は花を愛してるわ。どうやって生まれてきたかは関係ない」

 「もちろんよ。ただ…」

 和子はもう一度花の顔を見つめた。小さな命は安らかな寝顔を見せている。

 「あなたがキャベツハウスに通って、花に話しかけたり、成長を見守ったりしたのかしら?」

 その質問に、美咲は答えられなかった。実は彼女は忙しさを理由に、キャベツハウスを訪れたのは数回だけだった。ほとんどのコミュニケーションはアプリ経由で行い、成長記録も自動送信されたデータで確認していた。

 「私は…仕事が忙しくて」

 「わかってるわ。あなたは常にキャリアを大切にしてきたもの」

 和子の言葉には非難の意味はなく、単なる事実の確認だった。彼女は娘の選択を尊重する母親だった。

 「私は花を愛してる。それだけは確かよ」

 美咲は少し防衛的に言った。

 「もちろんよ。それがわかっているから、私は安心してるの」

 和子は優しく微笑み、再び花を見つめた。彼女の目には温かな光が宿っていた。

 「美咲、一つだけ約束してほしいことがあるの」

 「何?」

 「花が大きくなったとき、彼女がどうやって生まれてきたか、あなたはどう彼女を選んだか、正直に話してあげて。隠し事はしないで」

 美咲は頷いた。

 「もちろんよ。私も彼女には嘘をつくつもりはないわ」

 その夜、美咲は一人でベッドに横たわり、天井を見つめていた。母親との会話が頭の中でリプレイされる。彼女は自分の選択に後悔はなかったが、何か言葉にできない感情が胸の奥でうごめいていた。

 隣の部屋では花が静かに眠っている。美咲はふと立ち上がり、その部屋に向かった。扉を開けると、ほのかな光の中で娘が寝息を立てていた。

 美咲はベビーベッドの傍らに座り、小さな花の手を自分の指で包み込んだ。

 「花、あなたはキャベツの中で育ったけど、ママの心の中ではずっとあなたを感じていたよ」

 それは彼女自身も気づいていなかった本心だった。科学技術と母性の間で揺れる彼女の心が、束の間の安らぎを得た瞬間だった。


 週末の夕方、陽子は夫の健太郎と共に近所のカフェに座っていた。二人の前には熱いコーヒーと軽いケーキ。子供のいない二人きりの時間は、最近では貴重な機会だった。

 「美咲は母親の両親に預けてきたの?」

 健太郎がコーヒーを一口飲みながら尋ねた。

 「ええ、たまには二人の時間も必要でしょう」

 陽子は微笑んだ。しかし、その瞳の奥には何か考え込むような影があった。

 「どうしたの?何か悩みごと?」

 健太郎は敏感に妻の変化を察知した。

 「ううん…ただ、最近考えていることがあって」

 「二人目のこと?」

 健太郎の直球の質問に、陽子は小さく頷いた。

 「キャベツベイビーについて、少し調べてみたの」

 「そうなんだ」健太郎の表情が明るくなった。「何か分かったことは?」

 「ええ。私の会社の同僚で、キャベツベイビーを選んだ人が何人かいるのよ。話を聞いてみたら、思ったより…普通だった」

 陽子は慎重に言葉を選びながら話した。

 「普通?」

 「そう。ママになる実感が湧かないんじゃないかって心配したけど、産まれた赤ちゃんを抱いたとき、やっぱり我が子なんだって感じるみたい」

 「それは良かった」健太郎は安堵の表情を見せた。「他には?」

 「でも不安なこともあるわ。子供が大きくなったとき、どう説明するか。社会的な差別が生まれていることも事実だし…」

 陽子の言葉に、健太郎は真剣な表情になった。

 「確かにそれは課題だね。でも、僕らの世代が新しい道を切り開くんだと思うよ。いずれ、生まれ方なんて問題にならない社会が来るはずだ」

 「そう信じたいわ」

 「それより」健太郎は少し声を落として続けた。「キャベツベイビーには明確な利点もある。君の健康リスクを避けられること、仕事のキャリアを中断せずに済むこと…」

 「ええ、わかってる」陽子はケーキをフォークで突きながら言った。「でも、やっぱり自然な妊娠出産にも意味があるんじゃないかって思うの」

 「どんな意味?」

 「うまく説明できないけど…体の中で命を育てる経験そのものに価値があるんじゃないかって」

 健太郎は黙って妻の言葉を聞いていた。二人の間に静かな時間が流れた。

 「陽子、君の気持ちは尊重するよ。どちらを選んでも、僕はずっと君の側にいる」

 彼の言葉に、陽子は感謝の眼差しを向けた。

 「ありがとう。もう少し考える時間が欲しいの」

 「もちろん」健太郎は優しく彼女の手を握った。「急ぐ必要はない」

 その時、陽子のスマートフォンが振動した。彼女の両親からのメッセージだった。

 「美咲がパパにじゃれついて、とても楽しそうよ」

 写真には、笑顔の美咲と陽子の父親が映っていた。陽子はその写真を健太郎に見せ、二人は温かい笑顔を交わした。

 「私たちの娘は幸せね」

 「ああ、最高の子だよ」

 「そして、もし二人目を持つとしても、どんな形であれ、同じように愛するわ」

 陽子の言葉に、健太郎はただ静かに頷いた。窓の外では、夕暮れの街が徐々に明かりを灯し始めていた。


 キャベツハウスの一日は早朝から始まる。

 「おはようございます、佐藤さん」

 若いスタッフたちが次々と出勤してくると、管理責任者の佐藤明子は一人ひとりに丁寧に挨拶を返した。彼女は既に二時間前から施設内を巡回し、夜間のデータをチェックしていた。

 「7番エリアのキャベツが少し黄ばんでいます。栄養液の調整をお願いします」

 彼女の指示に、専門のスタッフがすぐに対応した。

 「佐藤さん、本日のスケジュールです」

 秘書が一日の予定表を手渡した。

 「午前中に三組の種付け式、午後からは二組の出産式…それと政府の視察団が14時に来ますね」

 明子は予定表を見ながら頷いた。「出産式」とは、キャベツベイビーが誕生する瞬間の儀式的セレモニーの内部用語だった。当初は医学的な用語で「分離」と呼んでいたが、両親たちからの要望で、より暖かな雰囲気の言葉に変更された。

 「政府視察は何人くらいですか?」

 「六名の議員と三名の官僚です。特に倫理委員会のメンバーが多いようです」

 「わかりました。特別説明会の準備もお願いします」

 明子は冷静に指示を出した。キャベツハウスは定期的に政府関係者の視察を受け入れていた。技術の透明性を保ち、社会的信頼を獲得するためだ。

 時計が9時を指すと、第一組の両親が到着した。若い夫婦で、緊張した面持ちだった。

 「鈴木様ご夫妻、おはようございます」

 明子は温かく迎えた。

 「今日は大切な日ですね。お二人のDNAを持ったキャベツベイビーの種付け式を行います」

 夫婦は緊張しながらも嬉しそうに微笑んだ。彼らはキャベツベイビー専用の清潔なガウンに着替え、特別な種付け室へと案内された。

 部屋の中央には一つのキャベツが置かれていた。ライフキャベツは、通常のキャベツよりずっと大きく、内部構造も複雑だった。

 「まず、お互いの指先を儀式ようの針で刺してください」

 明子は慎重に二つの小さな儀式用の針を取り出した。一方には夫の名前、もう一方には妻の名前がが刻印されている。実際どんな針で刺そうと血さえ取れれば良いのだが、この瞬間は両親にとって特別な意味を持つ儀式だった。

 「では、お二人で一緒に血を垂らしてください。これから9ヶ月子供を育てていくキャベツへ何か言葉をかけていただく方も多いですよ」

 夫婦は手を伸ばしキャベツに血を垂らすと、あっという間に吸収されていく。二人はキャベツに寄り添い長々と言葉をかけていた。

 「おめでとうございます。これからこのキャベツの中で、お二人の赤ちゃんが育っていきます」

 夫婦は感動の表情を浮かべ、互いを抱きしめた。妻の目には涙が浮かんでいた。

 「毎週、成長の様子をアプリでご覧いただけます。また、いつでもここに来て直接見ていただくことも可能です」

 明子は専用のタブレットを渡した。

 「このキャベツには話しかけることもできます。防音室もご用意していますので、プライバシーを保ちながらお子さんと会話していただけます」

 夫婦は感謝の言葉を述べ、しばらくの間キャベツを見つめていた。彼らの目には愛情が満ちていた。

 彼らが去った後、明子は次の夫婦の準備を指示した。そして、自分の小さなオフィスに戻り、深いため息をついた。

 キャベツハウスの仕事は感動の連続だが、同時に大きな責任と倫理的な重荷も伴う。明子は時々、自分たちが取り返しのつかない変化を社会にもたらしているのではないかと不安になることがあった。

 しかし、そのような考えを振り払うかのように、彼女は立ち上がり、次の任務に向かった。政府視察の準備をするために、彼女は最新のデータをまとめ始めた。特に、キャベツベイビーと天然ベイビーの成長比較のグラフが重要だった。

 「生後六か月時点での認知発達…キャベツベイビーが平均5%上回る…言語獲得速度…10%の差異…」

 彼女はデータを整理しながら、ふと考えた。これは単なる統計なのか、それとも人類の進化の証拠なのか。彼女にもその答えはわからなかったが、この技術が世界を変えていることだけは確かだった。


 小学校の校庭では、休み時間の賑やかな声が響いていた。

 健太と数人の男子が鬼ごっこをしている一方、麻衣は女子数人とケイドロに興じていた。一見すると、普通の小学校の風景だが、よく観察すると微妙な溝が見える。

 「健太、あっちのグループも誘ってみない?」

 クラスの担任・高橋先生が健太に声をかけた。彼女は意識的に、分かれがちな子どもたちを一緒に遊ばせようとしていた。

 「えー、でも僕たちだけの方が楽しいよ」

 健太は少し不満そうに答えた。彼の周りにいる子どもたちは、ほとんどがキャベツベイビーだった。

 「みんなで遊んだ方がもっと楽しいわよ」

 先生が諭すように言うと、健太は渋々頷いた。

 「麻衣ちゃん、みんなで鬼ごっこしない?」

 健太の声に、麻衣は一瞬躊躇った後、友達と相談して応じた。

 「いいよ。でも公平にチーム分けしてね」

 そうして二つのグループが一緒に遊び始めた。最初はぎこちなかったが、徐々に子どもたちの笑い声が一つになっていった。

 高橋先生はほっとして見守っていたが、校舎から校長が彼女を呼ぶ声がした。

 「高橋先生、ちょっとよろしいですか」

 校長室に入ると、そこには一人の母親が座っていた。健太の母親だった。

 「息子がいじめられているんです」

 健太の母親は感情を抑えながら言った。

 「最近、"回鍋肉ホイコーロー"と呼ばれるようになったそうです。息子は気にしないふりをしていますが、明らかに傷ついています」

 高橋先生は驚きの表情を浮かべた。休み時間には確かに分かれて遊ぶことはあっても、露骨ないじめは見ていなかったからだ。

 「詳しく調査します。どのような状況で起きたのか、教えていただけますか?」

 「他の保護者の集まりがあったときに、ある母親が私のことを"キャベツ農家"と呼んでいるのを息子が聞いたそうです。それから学校でも同じ言葉を使う子が出てきたと…」

 高橋先生と校長は顔を見合わせた。問題は子どもだけでなく、大人の間にも広がっていたのだ。

 「申し訳ありません。すぐに対応します」

 校長が深く頭を下げた。

 「私が望むのは公平な環境です。息子がどうやって生まれたかで差別されるべきではないはずです」

 健太の母親の言葉に、二人は強く同意した。

 母親が帰った後、校長は大きなため息をついた。

 「高橋先生、この問題への対応を考えましょう。全校集会で話すべきでしょうか」

 「いいえ、それは却って問題を大きくするかもしれません。まずはクラスごとに、『多様性』をテーマにした道徳の授業を行ってはどうでしょう」

 高橋先生の提案に校長は頷いた。

 「そうですね。そして保護者会でも慎重に話題にしましょう。大人の態度が子どもに反映されることを理解してもらわないと」

 二人が話し合っている間も、校庭では子どもたちが一緒に遊ぶ姿が見えた。彼らはまだ純粋だった。大人社会の複雑な価値観や偏見を完全に吸収する前の、貴重な時間だった。

 「子どもたちのあるがままの姿を守りたいですね」

 高橋先生のつぶやきに、校長は静かに頷いた。


 政府視察団を前に、キャベツハウスの佐藤明子は淡々と説明を続けていた。

 「現在、全国で百二十三箇所のキャベツハウスが稼働しており、月間約五千人のキャベツベイビーが誕生しています」

 議員たちはその数字に驚きの表情を見せた。

 「それは全出生数の何パーセントに相当するのでしょうか?」

 与党の女性議員が質問した。

 「現在は約8%です。しかし増加傾向にあり、今年末には10%を超えると予測しています」

 「成長率は?」

 「前年比で約30%の増加です」

 数字を聞いた議員たちの間で小さなどよめきが起こった。増加率はあまりにも急激だった。

 「次に、キャベツベイビーの健康状態についてご説明します」

 明子はスクリーンに様々なグラフを表示した。

 「生後一年間の健康指標では、キャベツベイビーは天然ベイビーと比較して、気道感染症の罹患率が27%低く、アレルギー発症率も18%低いことがわかっています」

 「それは環境制御の結果ですか?」

 「はい。キャベツ内での発育環境は最適化されており、特に免疫系の発達に好影響を与えているようです」

 議員たちはメモを取りながら、真剣に聞き入っていた。

 「しかし、懸念事項もあります」

 明子は話題を変えた。

 「社会的な分断や差別の問題が報告されています。また、キャベツベイビーの長期的な心理発達についてはまだデータが不足しています」

 「特に懸念されるのは何ですか?」

 野党議員が鋭く質問した。

 「母体との物理的繋がりがないことによる影響です。従来の研究では、胎内での母親の心拍や声の認識が乳児の愛着形成に重要とされてきました。キャベツベイビーではその経験がありません」

 「対策は?」

 「DNAドナーである両親に定期的な訪問を推奨し、キャベツに話しかけることを勧めています。また、生後の密接なスキンシップの重要性も強調しています」

 視察団はさらに施設内を見学し、実際のキャベツベイビーの育成過程を見た。透明なキャベツの中で静かに成長する小さな命を目の当たりにして、多くの議員が感慨深げな表情を浮かべた。

 見学の最後に、一人の年配の議員が明子に質問した。

 「佐藤さん、個人的な質問で恐縮ですが、あなたはこの技術の未来をどう見ていますか?」

 明子は一瞬考え込んだ後、慎重に答えた。

 「科学者として、この技術は人類の大きな一歩だと考えています。不妊に悩むカップルやLGBTQの方々に子どもを持つ可能性を広げ、女性の身体的負担を軽減しました」

 彼女は一度言葉を切り、続けた。

 「しかし、技術が進歩するスピードと、社会や倫理的考察が追いつくスピードには差があります。私たちはその溝を埋める努力をしなければならないと思います」

 議員は深く頷き、「貴重な意見をありがとうございます」と述べた。

 視察団が去った後、明子は疲れた表情でオフィスに戻った。表向きは自信を持って説明したが、内心では彼女自身も答えのない問いと向き合っていた。キャベツハウスが変えていく社会の形を、彼女は時に不安と共に想像するのだった。


 松本美咲のマンションでは、週末のブランチパーティーが開かれていた。同じキャベツベイビーを持つ母親たちが集まり、育児の情報交換をしながら近況を報告し合っていた。

 「花、本当に可愛いわね!」

 美咲の同僚である三十代の女性が、ベビーベッドで眠る花に見入っていた。

 「ありがとう。あなたの息子さんも素敵ね」

 部屋には四人の母親と、それぞれのキャベツベイビーがいた。全員が職場復帰を果たしており、キャリアと育児の両立を目指す「新世代の母親」だった。

 「先日、保育園の入園面接に行ってきたんだけど、なんと『キャベツベイビーですか?』って聞かれたのよ」

 一人の母親が少し憤慨した様子で言った。

 「え、それって差別じゃない?」

 「そう思って『なぜその質問をするのか』と尋ねたら、『特別なケアが必要かどうか知りたかった』って」

 「特別なケア?」

 「らしいわ。キャベツベイビーは母親との物理的な絆がなかったから、より多くのスキンシップが必要だとか」

 「そんな根拠のない!」

 美咲は眉をひそめた。

 「でも、科学的な研究もあるらしいわよ」別の母親が慎重に言った。「キャベツベイビーは初期の愛着形成に若干の遅れがあるっていう論文を読んだことがある」

 「そんなの、子どもによるわ」美咲は少し感情的になった。「花は全然問題ないもの」

 「もちろん、個人差はあるわ」

 ちょうどその時、部屋の奥で眠っていた花が泣き始めた。美咲はすぐに立ち上がり、花のところへ行った。彼女を優しく抱き上げ、頬にキスをする。

 「どうしたの、花?おなかすいたの?」

 彼女の優しい声に、花は少し落ち着いた。美咲はリビングに戻り、友人たちの前で授乳を始めた。彼女は母乳ではなく、特別調製のミルクを与えていた。

 「ところで、先日の国会の審議見た?」別の母親が話題を変えた。

 「ええ、キャベツベイビーの数を制限しようとしているわね」

 「私たちの自由を制限するなんて、許せないわ」

 「でも、同時に四人も産むのは、さすがに問題があるんじゃない?」

 そこから議論が白熱した。キャベツベイビー技術の将来、法規制の是非、社会的受容の問題…。それぞれが強い意見を持っていたが、一つだけ共通していたのは、「私たちはキャベツベイビーを選んで正解だった」という確信だった。

 話し合いが一段落すると、美咲は花を抱きながら窓際に立った。高層マンションの窓からは東京の街並みが一望できる。

 「この子たちが大人になるとき、世界はどうなっているんだろう」

 彼女のつぶやきに、友人の一人が寄り添った。

 「きっと、キャベツか天然か、そんなことは問題にならない世界になっているわ」

 「そうあって欲しいわね」

 美咲は花の小さな頭を優しく撫でた。母親たちの会話は続いたが、彼女の心の一部は既に未来へと飛んでいた。花が大きくなり、自分のルーツについて質問を投げかける日を想像していたのだ。

 「あなたはキャベツの中で育ったけれど、それはあなたをどうしても産みたかったからよ」

 彼女は花にそう伝えるつもりだった。それが真実であり、彼女の愛の形だったから。



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