第5話 日和と朝

 バイクのエンジン音が遠くで響き、ポストに投函される音が耳に届く。いつもの朝の音だ。


 もうこんな時間かと心の中でつぶやき、ペンを置いた。椅子にもたれてぐっと背伸びをすると、体の節々が軽く音を立てる。一階からは、母がキッチンで朝食を準備している音が聞こえてきた。その音を聞いた瞬間、現実に引き戻されるような気がして、心がざわつく。


 徹夜だなんて、私らしくない。でも、全然疲れていないのが不思議だ。ぐっすり眠った後みたいに頭は冴え渡っている。これもコーヒーの効果なのだろうか。


 窓の外に目をやると、朝の柔らかな光がカーテン越しに滲んで見えた。今日はなんだか調子がいい。せっかくだし、朝からお母さんを手伝ってみようかな。立ち上がりながら軽く身支度を整え、一階に降りていった。


 早起きした私を見て、母は驚いた。いつもギリギリまで寝ている私が、まさか自分から降りてくるなんてという顔だ。


「おはよう。ねえ、朝ごはん作るの手伝おうか?」


 そう言うと、母の顔がぱっと嬉しそうに輝いた。


「あら珍しい。なら、卵焼きやってみる?」


 母がフライパンを渡してくる。慣れない手つきで卵を割り、母の指示通りに調味料を混ぜ合わせた。


「ほら、焦げるわよ」


 横から指示が飛んでくるが、母は手助けをすることはなかった。フライパンから白煙が上がり、嫌なにおいがかすかにしだす。


「あ……」


 フライ返しでひっくり返した卵焼きは、一面焦げてしまった。


 できあがった卵焼きをテーブルに並べると、父がふらりとキッチンに入ってきた。見るなり、にやっとしながら一言。


「ハハハ、今日は嵐になるな。澪が料理なんてする日が来るとは」


 その言葉に少しムッとしたけれど、焦げた卵焼きを嬉しそうに食べる父の姿を見たら許すしかなかった。なんだか嬉しいような、照れくさいような気持ちで、私は静かに席についた。





「じゃ、行ってきまーす」


 玄関で母に軽く手を振り、家を出る。すっと晴れた空が目に飛び込んできた。雲ひとつない青空。自転車カゴに荷物を入れると、ペダルを漕ぎ出した。冷たい風が頬をかすめる。これぐらいの気温なら、運転するのも気持ちいい。


 学校へ近づくにつれて、同じ制服を着た生徒たちとすれ違う。少し早めの時間だから、朝練の生徒だろうか。彼らの姿をちらちらと見ながら、いつも通りの朝だなと感じる。けれど今日の私は、昨日の夜の出来事をまだ忘れられずにいる。


 校舎が見えてきたころ、元気な声が聞こえた。


「澪、おはよう!」


 日和だ。自転車を止めて彼女の方へ目を向けると、元気に手を振りながら駆け寄ってくる。彼女の足取りの軽さは、いつも変わらない。私もつられて小さく手を振り返し、彼女を待つように自転車から降りた。


「メッセージ見たよ。面白いもの見つけたんだって?」


 日和が目を輝かせて駆け寄ってきた。その期待に満ちた様子を見て、少し胸がざわつく。本のことは伝えていたが、コーヒーの事は言っていない。話そうか迷ったか、結局言い出せなかった。


 私は自転車を押しながら、日和に歩調を合わせる。


「うん、でも大きいものだから、部室に置いておきたいんだ」


 彼女の視線は自然と自転車カゴのトートバッグに向かう。


「あ、これがそう? ちょっと失礼!」


 日和が興味津々な顔をして、トートバッグの上から中身を確かめるように手を伸ばした。


「ちょっと硬いね。この形は……本?」


「あたり」


 それだけ短く答えると、日和がふふんと鼻を鳴らして笑った。


「へー、どんな本なの?」


 彼女の質問に、一瞬ためらいながら口を開いた。


「読めない本」


 その言葉に、日和が目を輝かせる。あからさまに悪い顔でにやりと笑い、「ほほう、それは楽しみですな」と声を弾ませた。

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