第6話 旋律
「そろそろ景品取りいこーか」
あんなに大きかったキャンディーがなくなり、
棒だけを咥えた志穂が、ゆっくり立ち上がった。
僕も、釣られるようにその後を追って立ち上がる。
階段を降りると、
体育館の方から、人混みのざわめきが聞こえてきた。
「……人、多いな。」
「なんか、やってるっぽいね。」
近くまで歩いていくと、
校内放送がちょうど流れた。
「○○高校からのゲストによるヴァイオリン演奏が始まります。」
「ヴァイオリン……文化祭って感じするなぁ。」
志穂は軽く笑いながら、体育館の方を覗き込む。
「……どうする?」
「見てみよっか。ちょうど暇だし。」
そのまま、僕たちは人混みを抜けて、
演奏が行われているステージの近くへ向かった。
体育館の中は、すでに照明が落とされ、
ステージの上だけが、柔らかく照らされていた。
その中央に、ヴァイオリンを構えた一人の女子生徒が立っていた。
そして――
音が、鳴った。
最初の一音で、
静かだった空気が一気に染まった。
優しく、透き通るような音。
でも、芯のある強さを感じさせる旋律が、
体育館全体を、まるで包み込むように広がっていく。
僕は、その場に立ち尽くしていた。
ただ、その音に、心を奪われていた。
周囲のざわめきも、
人の動きも、何もかもが、音に溶けて消えていく。
ただ――
その“音”だけが、そこにあった。
演奏が終わった瞬間、
会場は、しばしの沈黙の後、拍手に包まれた。
「……うわー、引き込まれちゃったね。」
志穂が、少し驚いた顔で言った。
「……うん。」
僕は、まだ少し夢見心地のまま、答えた。
そのまま、僕たちはまた、
文化祭の人混みの中へと戻っていった。
___
校舎の裏手に出ると、
屋台が立ち並んでいた。
焼きそば、たこ焼き、クレープ――
文化祭らしい匂いが、辺りに漂っている。
「おーい!」
少し先から、聞き慣れた声が響いた。
洸平が、焼きそばの入ったパックを両手に持って近づいてきた。
どうやら屋台の手伝いをしていたらしく、たくさん貰ったらしい。
「やっと見つけたわー、みんなでコレ食べよ。」
「腹減った、ナイスじゃん。」
志穂が嬉しそうに、焼きそばに飛びつく。
神山も、と合図され
僕も受け取り、近くのベンチに腰を下ろす。
⸻
麺から立ち昇るソースの香りに、自然と食欲が湧いてきた。
熱々の焼きそばを口に運ぶと、祭り特有の味が口いっぱいに広がる。
洸平は豪快に食べながら、
「やっぱ文化祭ってこういうのだよな」
と満足そうに笑っていた。
志穂も、フォークを器用に操りながら、ふと思い出したように口を開いた。
「さっきの演奏、やばかったよね。」
そう言った志穂の声に、僕も頷いた。
あの音が、まだどこか耳に残っている気がした。
そんな風に、僕たちはしばらく何気ない時間を過ごしていた。
その時だった。
ふいに、近くから聞こえた声に、僕は顔を上げた。
「……葛城さんですよね?」
その声に振り向くと、
さっきヴァイオリンを演奏していた女生徒と、
すらっとした短髪の男子が立っていた。
「あ、さっきのヴァイオリンの……」
僕が口を開くより早く、
志穂がぽつりと「知り合い?」と問いかけた。
恵は答えなかった。
代わりに、女生徒が小さく口を開いた。
「私、山田 優って言います……」
「急にすみません。葛城さんのこと、私が知っているだけなんです。」
唐突な返答に、
僕たちは一瞬、言葉を失った。
「……ドユコト?」
志穂が素直な疑問を投げる。
「実は……ヴァイオリンコンクールで、何度か会ってて。
葛城さんは、覚えていないかもしれませんけど……」
皆が、驚いた表情を浮かべた。
そんな話、一度も聞いたことはなかった。
(へぇー、そうだったのか……)
言葉には出さずとも、皆の視線がそう語っていた。
驚きと、興味――その目が、恵に注がれる。
恵は、ずっと黙っていた。
その横顔は無表情で――でも、
僕の視界に映る“色”は、揺れていた。
(……さっきから波長が不安定だ。)
僕が気にしていると、
優が、一歩踏み込んだ。
「なんで……居なくなっちゃったんですか?」
空気が張りつめた。
「……色々あって。」
恵は、少し間を空け、
ボソッと小さく答えた。
沈黙――重く、長い。
その沈黙を切り裂くように、
隣の男子が、鋭く言い放った。
「逃げたんだろ?」
嘲るような声。
刺すような視線。
誰かが言葉を発する前に、さらに続けた。
「いいよなぁ。嫌なことなんて、目を逸らせば済むんだから。」
恵は、何も言わなかった。
その色が、また激しく揺れた。
「……お前、一人でテンション上げてんなよ。」
志穂が、低く静かに言った。
「ごめん、ごめん。久々だったから、ついね。」
男は飄々と笑いながら、軽い調子で言葉を継ぐ。
「俺は慎太郎。優の兄で、君らと同い年。」
妹が、静かに補足する。
「兄も、ヴァイオリンをやってまして……
最近はずっと、コンクールで首位なんです。
私なんかより、ずっと上手くて。」
少し誇らしげに、少し遠慮がちに。
「でも……葛城さんがいた時は、ずっと“2番目”だったんです。」
最後に言い放ったその言葉が余韻として残った。
「ここで、弾いてみろよ」
慎太郎がバックからヴァイオリンを取り出しながら伝えた。
恵は何も言わずに立ち去ろうとする
「まだ、逸らし続けるつもりか?」
恵が振り返った瞬間だった。
場の空気が、確かに変わった。
まるで、
この瞬間だけ、支配者が変わったかのような“音”。
僕が“色”で感じるまでもなく、
その場にいた誰もが――伝わっていた。
「……俺を見ろ。」
慎太郎の手にあるヴァイオリンが、静かに音を放つ。
“サラサーテ:ツィゴイネルワイゼン”。
技巧の極み。
それでいて、激しく、乱れない。
狂気とすら思える執念が、音に宿っていた。
ただの演奏じゃない。
自分のすべてを、証明しようとする“叫び”だった。
言葉では伝わらない――
でも、確かに、伝わってきた。
想いが。
気持ちが。
感情が。
僕の中で――
初めて、“色”を、超えた。
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