第5.5話 過去の傷

一瞬とはいえ、自分の気持ちを口に出したのは、いつぶりだろうか。

俺は、本当に久々に、過去のことを思い出していた。


「信じること」――それは、簡単なことだと思っていた。


信じていれば、いつかは報われる。

いつかは、自分のことも見てくれる。

そう、信じていた――



7年前。


母親は、もっと昔に俺が幼い頃に亡くなった。

だから、俺の世界には、ずっと父だけがいた。


父、葛城 真幸は、天才と呼ばれたヴァイオリニストだった。

日本でもトップクラスの実力者。

でも――病気によって、弾くことを諦めた。


世間は、そんな父を“過去”にした。


どれだけの実力があっても、

音楽の世界は、甘くなかった。

父は、ゆっくりと“忘れられていく側”になった。



俺は、その姿を見ていた。

あの、誇りだった父が、

“ただの人”になっていくのを、横で感じていた。



だからこそ、父は俺に言った。


「お前なら、俺の続きをやれる」

ヴァイオリンを、俺に託してきた。


嬉しかった。

父の夢を、自分が引き継げることが。

そして何より、父の隣に立てる気がした。


厳しい練習も、全部意味があった。

努力するたびに、父は俺を見てくれた。

コンクールで入賞した時に言われた言葉。


「やったな」


その言葉だけで、自分を誇りに思えた。

そう言って笑った父が、俺の全てだった。



だけど、

運命は、俺を笑った。



父と同じ病気。

俺の右手も、ヴァイオリンを拒んだ。


「このままだと、もう続けるのは難しいでしょう。」

医者の言葉が、全てを壊した。


これからだったのに。

少しずつ、父に追いつけると思ってたのに。


そう、俺が思うよりもずっと深く、

父の顔は――悔しさに歪んでいた。

それは、怒りにも見えた。


そして、

俺を“見なくなるまで”そう時間はかからなかった。


父は、結局、生活費にしては余りあるくらいの金と、俺だけを残して家を後にした。

もう、俺を見たくなかったのだろう。


――にしても。

自分が、病気でヴァイオリンができなくなったことの痛み。

世間に切り捨てられた痛みを知っているはずなのに……

俺に、同じことをした。



俺を“なかった事”にしたんだ。

まるで、世間があの人を“過去”にしたように。




俺は気づいた。

結局、人は変わらないのだと。

自分がどれだけ辛かったとしても、

他人に同じことをしないとは限らないのだと。



だけど、分かっていながらも認めることができなかった。

できることは、全部やった。

まだ弾けるんだと、練習を重ねようとした。

神にも祈った。

もう一度、父に見てほしかった。


でも、誰も応えてくれなかった。

誰も、俺を見てくれなかった。



俺は、“過去”になったんだ。


そして、気づかされた。

父は最初から、俺のことなど見てくれてなかった。


父が見ていたのは――

“ヴァイオリンをやっている俺”だった。



瞬間、

俺の中で、確かに“音”が消えていく感覚があった。


それは、今まで信じて、積み上げてきた音。

自分のすべてだと思っていた音。


それがすべて、嘘だったかのように――

すべてが、俺の“勘違い”だったかのように――

“音”は、静かに消えていった。


数ヶ月が経ったころ、俺の右手は治っていた。

そう、医者からも伝えられた。


嬉しいはずだった。

また、弾けるのだから――

でも、何も嬉しくなかった。

“今更”と考えるよりも先に、そう感じていた。


あの時、もし治っていれば――

父は、また俺を見てくれたのだろうか。

もう一度、隣に立てたのだろうか。


……そんなこと、考えても意味はなかった。

過去は変わらない。

もう、父は居ない。

この結果だけが、無情にも支配している。




これも、全部“運命”だというのなら――

俺は、その言葉が、心底嫌いだ。


そして俺は、気づけば、

“信じる”ことを、やめていた。

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