第7話 魔王

ガヤガヤしていた中庭が、慎太郎の音に、静かに呑まれていった。

通り過ぎようとしていた人たちが、一人、また一人と足を止め、その演奏に耳を奪われていく。


予期せぬ演奏に驚きながらも、やがて――拍手の雨が降った。

慎太郎は、満足げに軽く頭を下げると、恵の方を見て、薄く笑った。


「弾いてみなよ。弾けるんだろ?」


「……もう、俺は弾けない。」


恵は、視線を逸らすことなく、ただ淡々と答えた。

すると、慎太郎の口元が、さらに歪んだ。


「そうか――そりゃ、捨てられるよな。」


あまりに意外な言葉に、周囲は一瞬、理解が追いつかなかった。

でも――恵だけが、確かに揺れていた。


そして――


恵は、黙って慎太郎の手からヴァイオリンを受け取った。

弓が、静かに弦に触れる。


その瞬間だった。

空気が、ねじれたように変わった。


さっきまでのざわめきが嘘のように、すべてが静まり返る。

何か、見えない力がこの場を支配した。

誰もが、本能的に“ひれ伏す”ような感覚。


まるで――“魔王”。


そして、その旋律が流れたとき。


「……あ。」


洸平が、小さく息を呑んだ。


「……これ、知ってる。」


志穂も、驚いたように言った。


「テレビとかで、よく流れてるやつ……クラシックって感じの。」


「パガニーニ“カプリース第24番”。」


そう、誰もが一度は耳にしたことのある旋律。

でも、今ここで鳴っているそれは――明らかに違っていた。


弓が、緩やかに動くたび、空気が軋んだ。


繊細な旋律。なのに、どこか荒い。

優しく、でも、暴れている。


――離れられなかった。


音は、耳ではなく、

心臓を掴んで、離さない。


まるで、胸の奥をぎゅっと握られているようで、

息をするのも、忘れそうになる。


「……荒れてんな。」


慎太郎が、ぽつりと呟いた。

でも、その声は――懐かしそうで、嬉しそうだった。



ただの演奏じゃない。


恵の音は、怒りで、哀しみで、願いで――全部でできていた。


完璧なはずの旋律。

その隙間から、こぼれ落ちるように、

黒い感情が滲んでいた。


繊細で、壊れそうなほど綺麗な音。

それなのに、牙を剥いたような荒々しさが、確かに混ざっていた。



――この時。

僕以外の人にも、感情の“色”が、

恵の出す“音”によって、感じられた。


誰も、言葉を発せなかった。


ただ、恵が最後の一音を奏で終えた瞬間――

中庭は、静まり返っていた。


誰一人、拍手をする者はいなかった。

できなかった。


その音は、美しくも、あまりに圧倒的で――

称賛すら許さないほど、“完成”されていた。


空気は、まだ震えていた。

胸の奥に残る余韻が、痛いほど響いていた。

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