Chapter 5 The Shift

– At the Queen's Whim, the Skies Shift

(お天気だって女王様の気分次第)


「……問題ない。聞こえてる」

芭蕉が、誰にともなく小声で言った。


晴花は手元のチップをいじりながら、ふと隣を見る。

……が、そこには誰もいない。


(え……?)

(芭蕉さん、今、誰に話しかけたの……?)


次の瞬間、また芭蕉の口が動く。


「……ああ。タイミングは俺が見る」


(や、やっぱりおかしい!!)


晴花の脳内で、小さな非常ベルが鳴り響く。

(ついに狂った!?ついに!?)


けれど、

わずかに覗くスマートグラスの隅で、

<<Humble Nuts – Visual Sync: Active>>

の小さな表示が、静かに光っていた。


晴花はもちろん、それに気づかない。

ただ必死に目をそらしながら、

(落ち着け、落ち着け私……普通、普通に振る舞うんだ……)

と、自分に言い聞かせるだけだった。


顔を強張らせたままチラチラ見ていると、

芭蕉は何も気にする様子もなく、静かにディーラーに視線を戻した。


そして、カードが配られ始める──


芭蕉はすぐにカードを確認する。

K♠ T♠

(悪くない。そして、今回はHumbleNutsがいる)


MP2番目の芭蕉からオープン。

「60点」


CO3番目の晴花は少し迷ってから、

「……コールで!」


SB5番目のTENETがコール。


HUDがマルチウェイであることを告げた。

《MP:芭蕉 / CO:晴花 / SB:TENET 》


フロップカードが一気に開かれる。

K♢ 9♠ A♣


《MP / ハンド:K♠ T♠ 》

《フロップ:K♢ 9♠ A♣/ ワンペア》

《ポット:210 / スタック:芭蕉 2,130》


(マルチウェイならば何か見つかるかもしれない。

 とにかく、やってみるしかない)


TENETが基本ルール通りチェック。

そして芭蕉からのCB。

「90点」


晴花は、手元を見つめたまま、小さく頷く。

「コール、です!」


TENET、コール。


ディーラーがターンカードを開く。

…2♡


《MP / ハンド:K♠ T♠ 》

《ターン:K♢ 9♠ A♣ - 2♡/ ワンペア》

《ポット:480 / スタック:芭蕉 2,040》


TENETは変わらず無言のチェック。


芭蕉は、ここで全員のスタック状況を確認する。

《MP 芭蕉2,040 / CO 晴花1,780 / SB TENET3,480 》

そして、セカンドバレル。

「200点」


晴花の手が止まる。

視線が何度か往復したあと──

「……レイズ、1000!」


声がはっきり響いた。


だが──

彼女が出したチップは、500点だった。


場に一瞬の空白が生まれる。


ディーラーが止まる。

周囲もざわつきかけたその瞬間──


慌ててもう一枚の500点チップを出そうとした拍子に、

自分のカードが1枚、めくれた。


場に、A♡が晒される。


芭蕉の目が揺れた。

TENETの顔は変わらない──はずだった。


だが──

首が、わずかに動いた。


ほんの1〜2度の角度変化。

けれど、それまでの完全静止状態からすれば、明確な“ノイズ”だった。


すぐにHumbleNutsの音声が芭蕉の耳に届く。

「……パパ。見えた?

 そのおじさん、動いた」


その声に、何かが重なる。

──皿をひっくり返して泣きそうになっていた、小さな声。

「ごめんなさい、パパ、ごはん落としちゃった……」


あの時も、似ていた。

真っ赤な顔をして、目を潤ませて──

謝るより先に、こちらを見たあの目。


その瞬間、横から視線を感じた。


晴花が、そっとこちらを見ていた。

不安と照れが入り混じったような、その表情。


──なぜか、重なった。

あの声と、この視線が。


TENETは、5秒沈黙したのち、

カードを伏せたまま前に差し出した。

「……フォールド」


晴花は「えっ」と小さく声を上げながら、晒されたA♡を慌てて戻す。


芭蕉は、黙ってカードを前に差し出しフォールド、しばらく何も言わなかった。


TENET…機械にはない、どこか“未熟な幼さ”──


(……これが、突破口になるな。

 いつだって親は子供に教えてもらってばっかりだな)


芭蕉は、次のハンドに向かってチップを整えながら、

静かに目を細めた。


──数ハンド後、

配られたのは、8♢ 2♣

芭蕉は迷いなくリンプイン最低参加金額=20点

《スタック:芭蕉 1,780》


フロップ前、BTNからのレイズが飛ぶ。

芭蕉、即フォールド。

しかしディーラーには「ゲーム終了後にカードを開きたい」と告げる。


そして、8♢ 2♣をオープン。


──次のハンド。

J♣ 4♠

静かにリンプ。

《スタック:芭蕉 1,760》

後ろからレイズ。


即フォールド。

ゲーム終了後、ハンド公開「J♣ 4♠」。


──さらに数ハンド後、芭蕉に配られたのは、5♠3♢。

TENETが60点オープン。

そして芭蕉はコール。

《スタック:芭蕉 1,650》


(こいつがいるなら、入る。ハンドじゃない。)


しかし、フロップでのベットに対して即フォールド。

「5♠3♢、ハンドですどうぞ」


その後、芭蕉はTENETが参加する時に限り、

何度も執拗にクソハンドで参加し、

その度にハンドオープンし続けた。


──芭蕉に強めのハンドが配られる。

A♠ Q♠


SBの芭蕉はリンプイン20点。

BBのTENETはコール。


《SB / ハンド:A♠ Q♠ 》

《フロップ:J♢ A♣ 7♠/ ワンペア》

《ポット:60 / スタック:芭蕉 1,580》


芭蕉は20点のミニマムベットを行った。

TENET、即コール。


ターンではラグカード無価値

《SB / ハンド:A♠ Q♠ 》

《ターン:J♢ A♣ 7♠ - 4♡/ ワンペア》

《ポット:100 / スタック:芭蕉 1,560》


芭蕉はすかさず20点のミニマムベット。

TENET60点のレイズに芭蕉はフォールド。

A♠のみ、見えるようにカードを投げ捨てた。


普通、降りないところで降りた。

──その瞬間、

「……パパ、今、また首、動いた」

HumbleNutsからの音声が芭蕉の耳に届いた。


「…ああ、わかってる」


一方その頃、晴花は…

(ひぃいい!!また独りごと喋ってる…。

 プレイもおかしいし、

 芭蕉さん、やっぱり狂っちゃった!?)


怯える晴花を横目に、芭蕉はしばらく同じようなプレイを繰り返した。

弱いハンドでリンプ参加の即フォールド、

強いハンドでの連続ミニマムベットからの即フォールド、

芭蕉のVPIP参加率は一時的に75%を超えた。


──そして、4♢ 6♠が芭蕉に配られる。

COのTENETが参加するのを確認し、BBの芭蕉はコール。


《BB / ハンド:4♢ 6♠ 》

《フロップ:4♡ 3♠ K♣/ ワンペア》

《ポット:110 》

《BB 芭蕉1,380 / CO TENET 4,260 》


芭蕉は4ヒットのワンペアでチェック。

TENETの40点CBに、芭蕉がコールし、ターンへ進む。


《BB / ハンド:4♢ 6♠ 》

《ターン:4♡ 3♠ K♣ - 6♢/ ツーペア》

《ポット:190 》

《スタック:BB 芭蕉1,340 / CO TENET 4,220 》


芭蕉はチェック。

そして、TENETの100点ベット。


ジャラっ…芭蕉のチップが音を立ててテーブルに滑り込む。

「レイズ200点」


TENETは2秒間、いや、1秒もなかったかもしれない。

ただ、これまでとは違う、明らかに長い沈黙であった。

「コール」


「……パパ、いつもより長いよ」


芭蕉は、目を伏せながら、ゆっくりと息を吐いた。

(ああ……ついに、“それ”を拾い始めたか)

(俺を、俺の“意図”を、学習している)



HumbleNutsが喋るやいなや、リバーカードが開かれた。

《BB / ハンド:4♢ 6♠ 》

《リバー:4♡ 3♠ K♣ 6♢ - 2♣/ ツーペア》

《ポット:590》

《スタック:BB 芭蕉1,140 / CO TENET 4,020 》


(……なら、もう一度見せてやろう)

(学ぶべきは“俺のライン”じゃない。

 その裏にある、"読めなさ"そのものだ)


(──これが、“混沌カオス”だ)


芭蕉はチェック。


TENETもチェックを返し、二人のカードがオープンされた。


芭蕉:4♢ 6♠(ツーペア)

TENET:K♠Q♠(Kヒットワンペア)

《ボード:4♡ 3♠ K♣ 6♢ 2♣ 》


ディーラーから運ばれたチップを並べながら、芭蕉は思考を巡らせた。


(あそこは──普通なら、俺が打つべき場面だった)

(けど、チェックを選んだ。あえて、見逃した)

(その前のレイズも含めて、“毒”を混ぜたラインだ)

(そしてこいつは、それを“正しい動き”として学習した)


(…次は、その毒がどう効くかを見せてやる)



──数ハンド後、配られたのは、6♡ 7♡。


MPの芭蕉は一瞥し、静かにチップを差し出した。

「ベット、60点」


SBのTENETが機械的にコール。


フロップが開かれた。

《MP / ハンド:6♡ 7♡ 》

《フロップ:K♠ 4♢ T♣/ ハイカード》

《ポット:160 》

《スタック:MP 芭蕉1,790 / SB TENET 3,910 》


TENETがいきなり打ってきた。

「ベット、90点」


(……来たな。お前の“答え合わせ”)


あの、ドンク。

あの、ライン。

──まるで、トンプソンがそこにいるかのようなテンポ。


(だが、それは“模倣”だ)


芭蕉は表情を変えずにコールした。


(ここまでの俺のプレイは、すべて“毒”だった。

 あえてバリューを取り損ね、

 あえてチェックで逃し、

 TENETに“それが正解”だと思わせるための)


ターンが開かれた。

《MP / ハンド:6♡ 7♡ 》

《ターン:K♠ 4♢ T♣ - 5♢/ ハイカード》

《ポット:340 》

《スタック:MP 芭蕉1,700 / SB TENET 3,820 》


TENET、チェック。

芭蕉は静かな一言。

「……チェック」


リバーカードはやや斜めに置かれた。

《MP / ハンド:6♡ 7♡ 》

《リバー:K♠ 4♢ T♣ 5♢ - 5♣/ ハイカード》

《ポット:340 》

《スタック:MP 芭蕉1,700 / SB TENET 3,820 》


テーブルの空気が張りつめる。


そして──

「ベット、850点」


TENETは、また同じラインを辿った。

ポラライズされたドンク。

まるで、処理済みの答えを読み上げるように。


芭蕉は、一拍の間を置き、静かに目を細めた。


(──来たな)


(さっきのツーペア、見てただろう。

 強くても、俺は打たなかった。

 だから今、こうして打てば──俺が降りると、思ってる)


ほんのわずか、視線が遠のく。


(あれは、魂が乗っていた。

 勝ちたい、という願いも、負けたくない、という本能も。

 トンプソンは、ただ強かったわけじゃない。

 ──“人間”だった)


(でもお前は、違う。

 これは……魂なき模倣だ)


芭蕉は目を閉じ、そして静かにチップを押し出した。

「オールイン」


──これが、教育だ。

魂を持たないなら、今、ぶつけてやる。


1,700点のチップの山が音もなく滑る。


TENETは、5秒……10秒……

まるで“迷う”という感情を学んだように、静止した。


そして──

「……フォールド」


芭蕉は、静かにカードを開いた。

6♡ 7♡


ただのハイカード。

ただの、“魂なきライン”へのカウンターだった。


チップの山が芭蕉に運ばれる。

《スタック:MP 芭蕉2,790 / SB TENET 2,970 》


「まだ終わらないぞ、坊や」


その言葉に、わずかな優しさが滲んでいた。

まるで、少し前に立つ大人が、

背中で何かを教えようとするような声だった。



──程なくして7♠ 7♣が芭蕉に配られる。


TENETがCOから、標準通りのオープン。

「60点」


芭蕉はBBでコール。


フロップが綺麗に開かれた。

《BB / ハンド:7♠ 7♣ 》

《フロップ:Q♢ A♢ 9♣/ ワンペア》

《ポット:150 》

《スタック:BB 芭蕉2,710 / CO TENET 2,910 》


芭蕉は即座に動く。

「ベット、50点」

今度は芭蕉からのドンクベット。


TENETはコール。


ターン…6♠

《BB / ハンド:7♠ 7♣ 》

《ターン:Q♢ A♢ 9♣ - 6♠/ ワンペア》

《ポット:250 》

《スタック:BB 芭蕉2,660 / CO TENET 2,860 》


芭蕉はテンポを崩さず、ミニマムベット。

「50点」

──テンポを崩さない。

まるで、子供に歩き方を教えるように。


TENETはレイズで反撃を行った。

「150点」


芭蕉はスナップでコール。


リバー…7♢

《BB / ハンド:7♠ 7♣ 》

《リバー:Q♢ A♢ 9♣ 6♠ - 7♢/スリーカード》

《ポット:550 》

《スタック:BB 芭蕉2,510 / CO TENET 2,710 》


静かに笑った。

(……これで、終わりだ)


「オールイン」


崩れながら滑るチップの山。

迷いのない、その押し出し。


TENETは、遅れてコール。




──ショウダウン──




芭蕉:7♠ 7♣(スリーカード)

TENET:Q♡ A♡(ツーペア)

《ボード:Q♢ A♢ 9♣ 6♠ 7♢》


ディーラーの手が動き、チップは芭蕉の元へ。


「……コールすると思っていたよ。

 ずっと“正しく”学習していたからな」


TENETの顔に変化はない。


「これがトンプソンの正しいラインだ。

 それにな、

 人はいつだって、理論の外側で戦ってるんだ。

 それを真似たって、“魂”が乗らなきゃ意味がない」


小さく、言葉を切った。


「次は、トンプソンの魂でも──学習するんだな、坊や」


TENETの表情は変わらなかった。

だが、その内部処理領域に、ノイズのような文字列が一瞬走る。

<Undefined: 魂(Soul) / Searching…>



静寂だけがテーブルを包んでいた。



隣では、晴花がそっと芭蕉を見ていた。

──さっきから何度も聞こえる、小さな独り言。

芭蕉は誰かと話しているようで、でも誰も見えない。


晴花はたまらず、声をかけた。


「……あの、芭蕉さん」


芭蕉はゆっくりと顔を向ける。


「何だ?」


「さっきからずっと……誰かと話してますよね?」


芭蕉は少し笑って、スマートグラスの縁を軽く叩いた。

まるで、子供に紹介するように。


「……ああ。こいつと話してる」


「え?」


晴花が眉をひそめると、HUDの隅に文字が浮かぶ。


《Humble Nuts – Visual Sync: Active》


「……まさか、ハンブルナッツって、あの……?」


晴花は、ふっと小さく息を呑んだ。

思い出す──かつて芭蕉さんの会社にいた頃のこと。

『Humble Nuts』の学習モデルを応用した大きな案件の話。

そして、そのそばに、いつもいた"あの人"のことも。

芭蕉さんの家族のことも──


「……ちゃんと動いてるんですね。今でも」


芭蕉は答えなかった。

けれど、晴花には、それで十分だった。


黙ってチップを並べる彼の横顔。

その瞳に宿る光は、もう“孤独な男”のものではなかった。


そして──

次のカードが、配られ始める。

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