第19話 食卓に残されたもの

彼女の名前は、田島。

五十代前半、二児の母。専業主婦。


毎朝6時に起きて朝食を作り、

子どもを送り出し、掃除と洗濯、買い物、夕食の下ごしらえ。


夜は家族の話を聞きながら、ビールを一口だけ飲むのが楽しみだった。


夫は無口で仕事一筋。

子どもたちはそれぞれ進学と受験を控え、家の中は“忙しさ”で満ちていた。


誰よりも“日常”を支えていたのに、

誰よりも“空気”のように見えがちな人。


それが彼女だった。


死因は、食中毒。

原因は冷蔵庫に残っていた古い煮物。


誰も責められない。

本人でさえ気づかなかった。


発症してから数日、体調を崩したが、病院に行くのをためらい、

「明日には治るから」と寝室で休んでいた。


その“明日”は、来なかった。


ぼくは今回も告げていない。

ただ、観察していた。


彼女の暮らしは、実に丁寧だった。


掃除機のあと、必ず玄関に花を飾る。

買ってきた豆腐は、必ず手のひらで一度軽く温めてから冷蔵庫へ。

お弁当には必ず家族それぞれの好物が1品入る。


彼女は、誰にも気づかれないまま、

毎日、小さな愛情を置いていた。


亡くなった後、家族はその突然さに呆然とした。


娘は泣きながら、

「お母さんの料理がもう食べられないって、どうして今さら思い知るんだろう」と言った。


息子は、黙って夕食を食べていた。

テーブルの上には、母が作り置いていたハンバーグが1皿だけ残されていた。


夫は、彼女のスマホを充電し、カレンダーアプリを開いた。

そこには、“息子模試 8:30送迎”、“娘の面接日リマインド”といったメモがびっしり書かれていた。


誰のために、彼女は今日まで生きていたか。

それは、全部そのカレンダーが語っていた。


彼女の魂は、ふわりと優しかった。


ぼくは、迎えに行くときに聞いた。


「あなたは……やり残したこと、ありましたか?」


彼女は笑って、こう言った。


「たくさん。でも、もういいの。

家族が元気で、笑って暮らせたら、それでいいわ」


それが、彼女の“満足”だった。


ぼくはその魂を抱きながら、思った。


大きな夢も、派手な目標もなくても、

誰かの暮らしを支えることで、人生はちゃんと満たされる。


死の意味は、その人の“支えた時間”に宿るのかもしれない。


「……あなたの生き方、きっと家族の中に残ります」


そう、心から伝えたかった。

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