第18話 自分に戻る場所

彼の名前は北見。

四十二歳、システム系企業の課長職。


毎朝7時半には会社に入り、夜は終電近くまで残業。

スーツの折り目は整っていても、目の下のクマは隠しきれない。


昼食はコンビニのパンとエナジードリンク。

家族とはすれ違い、会話らしい会話はほとんどない。

息抜きといえば、駅のホームで吸う一本のタバコだけ。


“何かが崩れそう”な人間だった。


ぼくは今回、彼の同僚という立場で会社に入り込んだ。

休憩中に話しかけては、少しずつ距離を縮めていった。


ある日、エレベーターの中で、彼にこう言った。


「もし、“あと一年で死ぬ”ってわかったら、どうします?」


彼は最初、鼻で笑った。


「それ、最近の流行り? なんかのビジネス書か?」


「いや、そういうわけじゃないです。ただ、たまに考えるんですよ。

“自分の人生って、このままでいいのかな”って」


沈黙がしばらく続いた。


やがて彼は、低い声でつぶやいた。


「……俺、何がしたかったんだっけな」


その日から、彼に小さな変化が現れた。


コンビニじゃなくて、近くの定食屋に入るようになった。

仕事中、ふと手帳にメモを書くことが増えた。

誰にも見せないが、明らかに“考えて”いた。


一度だけ、酒を飲みに誘われた。


「実はさ、高校の時、教師になりたかったんだよ。

進路変えたのは、家が貧しかったからだけど……

最近、夜中に授業の夢を見るんだ。“なんでそっち行かなかったの”って自分に責められる夢」


ぼくは、それには答えなかった。

ただ聞き続けた。


彼は、ふたたび日々に戻っていった。

だが、かすかな違和感が残り続けていた。


ある朝、突然胸を押さえて倒れた。

救急搬送されたが、すでに遅かった。


過労によるストレスと心疾患。

会社には“健康管理不足”のレポートだけが残された。


デスクの中には、あのメモ帳があった。


開かれたページには、こう書かれていた。


《あと一年なら、“自分に戻る”ために時間を使いたい。

けど……結局、自分が誰だったか思い出せなかった》


ぼくは、その魂を静かに迎えた。


“選ばなかった道”は、いつまでも心の中で声を上げる。

でも、聞こえないふりをして働き続ける人は多い。


もしあと少し、時間があれば――

彼は自分に戻れたのだろうか?


ぼくは、そっと目を閉じた。

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