第17話 引き継ぐということ

彼は、すでに“終わり”に向かって生きていた。


名前は大庭。七十六歳。

都内の町工場を一代で築き上げた中小企業の社長だった。


ぼくは今回、“フリーの営業代行”として彼の会社に潜り込んだ。

あくまで外部の人間として、ゆるやかに接点を持つ。


彼は毎朝、決まった時間に会社へ来る。

だが、もう現場で直接指示を飛ばすことはない。

机に座って、新聞を読み、時折社員に声をかけるだけ。


経営の実務はすでに副社長に任せており、

会社はゆっくりと“次の世代”に受け渡されようとしていた。


それでも彼の中には、まだ“何か”が残っているように見えた。


ある昼下がり、ぼくはふと訊いてみた。


「社長って、もし“あと一年で人生が終わる”としたら……どうします?」


彼は一瞬だけ目を細めた。


「……そうだな。

工場の鍵を、本当に“誰か”に渡すかもしれんな」


「本当に、って?」


「渡したようで、まだ手放せてないのよ。心のどこかで。

でも……時間ってのは、やっぱり有限だな。

あと一年って言われたら、たぶん“決断”するしかないだろうな」


それから彼は、少しずつ変わっていった。


長年の顧客との契約を整理し、

副社長との1対1のミーティングを増やし、

工場の古い備品を手放していった。


「大事なものは、残す。だが、残しすぎてもいかん」


そう言って彼が処分した中には、創業当初からの書類もあった。


ある日、彼はぼくにこう話した。


「引き継ぐってのは、ただ“任せる”ってことじゃないんだ。

“自分がそこから離れる覚悟”のことだ。

それができたとき、人間は……死ぬ準備ができるんじゃないかな」


ぼくは、その言葉が胸にしみた。


冬の朝。

彼は、静かに自宅の布団の中で亡くなった。


特別な前触れはなかった。

ただ、前日まで変わらず会社に顔を出し、

「来週は行けないかもしれんから、みんな頑張ってくれ」と笑って帰っていったという。


机の引き出しには、鍵束と、たった一言だけ書かれたメモがあった。


《これからは、君たちの時代だ》


ぼくは、その魂を迎えながら思った。


“終わり方”は、時に美しい。

何も劇的なことを起こさず、ただ“譲る”ことだけで人は、静かに次へと向かうことができる。


「ぼくが何かを言わなくても、

人はちゃんと、終わりに向かって歩いていけるんだな……」


そう確かに、思えた。


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