人間界編
第16話 あと一年だったら、何をする?
彼の名は、古賀。
五十歳目前の建設作業員。
現場では黙々と仕事をこなし、あまり多くを語らない男だった。
朝は一番に出勤し、誰よりも先に現場に立ち、
昼は缶コーヒーを片手に黙って空を見上げる。
ぼくは今、“人間”として、同じ作業員としてその現場にいる。
名前は仮に“カナメ”と名乗っていた。
ぼくの仕事は、あくまで彼の死に“気づかせる”こと。
直接、死を告げることはできない。
ただ、思考の糸口を手渡すだけ。
ある日、昼休み。
ぼくは古賀の隣に座って、缶コーヒーを開けた。
「古賀さんって、もし“あと一年で死ぬ”って言われたら……何すると思います?」
彼は手を止め、こちらをじっと見た。
「……妙なこと聞くな。誰か死んだのか?」
「いや、なんとなく。
人生って、急に終わることもあるじゃないですか。
そう思うと、やりたいことって先延ばしできないなーって」
彼はしばらく無言だった。
そして、ポツリと答えた。
「……バイク、直すかな」
「バイク?」
「ガレージで埃かぶってる。昔、走ってたんだ。
今はもう乗る暇も気力もなかったけど……
死ぬってなったら、最後くらい、もう一度あいつで走ってみたいな」
それは予想外の言葉だった。
朴訥な彼にも、胸の奥にしまい込んだ“夢”があった。
その数日後、彼は本当にバイクを修理し始めた。
仕事が終わるとまっすぐガレージに向かい、
夜な夜な工具を片手にエンジンを磨き、部品を組み直す。
その背中はどこか楽しげだった。
ぼくは、そっと遠くから見ていた。
「もし死ぬとしても、誰にも迷惑かけたくない」
彼はある夜そう言った。
「だから、あらかじめやれることはやっておきたい。
あいつ(バイク)と走って、最後に自分の人生にケリをつける。……それだけでいいんだ」
ぼくは、何も言えなかった。
それは立派な“準備”だった。
だが、その日は思いのほか早く来た。
ある午後、鉄骨の足場が崩れ、彼は下敷きになった。
誰のせいでもない、小さなミスとタイミングの積み重ねだった。
彼の手帳には、修理完了までの部品リストと、最後に走る予定だった“海沿いのルート”が丁寧に書き込まれていた。
叶わなかった夢。
けれど、ぼくにはわかった。
彼は、その夢に“向かっていた”こと自体が救いだったのだと。
ぼくはその魂を、そっと抱き上げた。
「言わなくても、伝わることがある。
人は、ちゃんと自分で“終わり”を考えられる」
そう思えた瞬間だった。
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