第15話 報われない白衣

彼は若かった。

名前は佐伯。二十九歳。

病院に勤める理学療法士だった。


真面目で、責任感が強くて、患者にもスタッフにも信頼されていた。

ぼくが彼を観察しはじめたとき、彼はまだ元気で、よく笑っていた。


死因は、医療ミスによる急性アナフィラキシーショック。


本来、避けられたはずの死。

その日は、彼が腰の違和感を訴え、自ら診察に訪れた。


そして処方された注射薬――

本来のアレルギー履歴が電子カルテに記録されていたにもかかわらず、

別の患者のデータと取り違えられたまま、投与された。


彼は数分後に倒れ、意識を失った。


ぼくはその現場を、ただ“観ることしかできなかった”。


叫ぶ看護師。

蒼白な顔の若手医師。

必死に処置を施す緊急チーム。


けれど、その全ては“間違った一手”の前には無力だった。


彼は戻らなかった。


職場全体が沈んだ。


いつも冗談を飛ばしていた仲間たちは、誰も声を出さなかった。

担当医師は責任を感じ、辞表を提出。

院内での調査は淡々と進み、カルテシステムの更新ミスが原因だと報告された。


でも、それで何が変わるだろうか。


彼は、もう戻ってこない。


恋人が遺品整理のために病室を訪れた。


白衣、タブレット、スニーカー、そして日記帳。


その最後のページには、こう書かれていた。


《明日、プロポーズする。

喜んでくれるかな。きっと泣くよな。

ちゃんと、彼女の名前、練習して呼ばないと。》


ぼくは、その文字を見たとき、

ただひとつの言葉しか浮かばなかった。


「どうして、よりによって今日だったんだろう」


葬儀の日。

彼女は涙を流しながら、佐伯の家族に小さな箱を渡した。


「彼が用意していた……指輪です。

昨日、私の誕生日だったから、きっと今日……渡そうとしてたんです」


ぼくは、彼の魂を迎えながら、初めて強く、こう思った。


「この死は、不条理だ。誰のせいであれ、こんな終わりは、あっていいはずがない」


でも――それでも、ぼくは、ただ見ていることしかできない。


神でありながら、何も変えられない。


その夜。

観察窓の前で、ぼくはしばらく座り込んだままだった。


この場所から人間を見続けて、

美しい死も、安らかな死もあった。


でも、すべてがそうとは限らない。


「死を受け入れる」という言葉が、

すべてを正当化する免罪符であってはいけない。


ぼくはその日、そう強く思った。

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