第14話 吸ってしまった煙の向こうで
彼の名前は、桐原。
六十二歳。元タクシー運転手。
十代からのヘビースモーカーだった。
一日二箱。
肺がんの診断を受けたのは、退職して一年も経たない頃だった。
「まあ、こんなもんだろう。吸い過ぎたのは自覚あるしな」
医師にそう告げられたとき、彼は淡々と受け止めた。
ぼくはその姿を、観察窓の向こうから見ていた。
今回も告知はしていない。
何も言わなくても、彼は「自分の終わり」をちゃんと理解していた。
入院している病棟では、彼はちょっとした“人気者”だった。
冗談を飛ばし、ナースに軽口を叩き、
リハビリの若者患者に「生きてるうちは全部エンタメだぞ」と語る。
しかし、その裏で彼はひとり、
静かに過去と向き合っていた。
夜になると、ベッドのライトを落としながら、独り言のように呟く。
「肺がんなんて、かっこ悪ぃな……
でも、煙草の味、好きだったんだよ。
ストレスとか寂しさとか、ちょっとだけ和らぐ気がしてさ」
ぼくは、その言葉が印象に残った。
自分の死の原因を、自嘲するでもなく、
誰かのせいにもせず、ただ“抱えて”いるようだった。
娘がたまに見舞いに来た。
「なんでやめなかったのよ、パパ」
「んー……かっこつけたかったんだよ。
あと、“やめなかった後悔”ってやつを、味わってみたかったのかもな」
娘は呆れたように、でもどこか納得した顔で笑った。
その日、彼は少しだけ真面目な声で言った。
「育ててくれて、ありがとうな。お前が大人になって、ほっとしてる」
それが、彼の“お別れ”の言葉だったのかもしれない。
最期の数日は、苦しみもあった。
呼吸が浅くなり、酸素マスクを嫌がるようになり、
それでも誰かに泣き言を言うことはなかった。
彼の姿は、まるで“死を迎えるのも自分の責任”と受け止めているようだった。
ある夜、彼はベッドの脇のナースにこう言った。
「最後の煙草、一本吸えたら……きっと、天国にも行けるな」
ナースは困ったように笑ったが、
それでも彼の言葉に、涙ぐんでいた。
彼は翌朝、眠るように息を引き取った。
ベッド脇には、入院前に娘からもらった“煙草ケース”が置かれていた。
中には、折り紙で作られた煙草と、娘の手紙が挟まっていた。
《パパへ
これなら吸っても怒られないよ。
大事な思い出も、ちゃんと残ってるからね》
ぼくは、彼の魂を回収しながら思った。
死の理由が“自業自得”だったとしても、
それを静かに受け入れられる人間は、強く、やさしい。
過去を悔やむよりも、
今の感謝を残していく方が、ずっと難しい。
「彼の最期は、いい最期だった」と、
そう、ぼくは確かに思った。
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