第13話 ありふれた朝の終わりに

彼の名前は、村井。

四十五歳、会社員、既婚、二児の父。


とても普通の人だった。

毎朝コンビニのコーヒーを買い、新聞の株価欄を眺め、

駅のベンチでうとうとしながら通勤していた。


仕事はそれなり、家庭もそこそこ、悩みもあるけど、特別大きな事件はない。

まさに“どこにでもいる”、日本のサラリーマン。


彼の死因は、インフルエンザの重篤化による多臓器不全。


体調を崩したのは、1月の寒い朝だった。


「ちょっと熱っぽいな……まあ、寝てれば治るだろう」


それが、彼の最後の出勤日となった。


ぼくは今回も、告知はしていない。

ただ、見ている。

淡々と日常が崩れていく、その過程を。


最初の数日は、軽い風邪と思っていた。

妻も「大げさなんだから」と笑っていた。


だが、三日目には高熱と呼吸の異常が現れ、病院に搬送された。


「インフルエンザから肺炎を起こしています。

少し進行が早いですね。集中治療室に入れましょう」


そのまま彼は、意識を失った。


病室の前で、妻は泣いていた。


「バカじゃないの……病院、もっと早く行ってれば……!」


息子は父の入院をよく理解できず、

娘は部屋の隅でじっとぬいぐるみを握りしめていた。


彼の“何気ない存在”が、家族の中心だったことが、

皮肉にも、その不在によって浮き彫りになっていった。


入院から一週間後。

多臓器不全が進み、医師から最期の説明がされた。


「できることは、もう……」


ぼくは、あの日常の積み重ねが、

こうして一瞬で崩れるのを、黙って見ていた。


決してドラマチックじゃない。

泣き崩れるわけでも、感動の言葉が飛び交うわけでもない。


けれど、家族はそれぞれの方法で、

“父”と“夫”のいない現実を、静かに受け止めようとしていた。


その晩、彼は心臓の動きを止めた。


隣の病室から、看護師が静かに来て、無言で合掌した。


ぼくはその魂を受け取りながら、思った。


「人は、なんて簡単に死ぬんだろう」

「でも、その死は、誰かの“世界”を確かに揺らすんだ」


彼の人生に劇的な何かはなかった。

けれど、毎日通ったコンビニ、子どもと見たアニメ、夜の風呂の温度――

すべてが、確かに“生きていた”という証だった。


ありふれた人生にこそ、

死は最も静かで、最も深く染み渡るものになる。


「……ありがとう。見させてもらったよ」


ぼくは、そう心で呟いた。

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