第12話 語られなかった最後のことば
事故は、ほんの数秒の出来事だった。
信号無視のトラック。
横断歩道を渡っていた青年は、何の前触れもなく跳ね飛ばされた。
即死ではなかった。
ただ、意識が戻ることはなかった。
彼の名前は河原。二十七歳。
ITベンチャー企業に勤め、仕事は順調、交際中の恋人もいた。
何もかもが、これからだった。
集中治療室で眠る彼は、まるで穏やかな昼寝をしているように見えた。
けれど、その身体の中では、もう“帰ってくる意思”は失われていた。
ぼくは何も告げなかった。
もう、彼には届かないから。
代わりに見えたのは、「彼のまわりの人間たち」の感情だった。
両親は毎日病室に通った。
父は言葉少なに付き添い、母は手を握って話しかけていた。
「ねえ、朝ごはんに何がいい? おにぎり? トースト?
あんた、昔はピーマン嫌いだったよね。もう食べられるようになった?」
彼女は、自分の涙を見せないように、いつも笑顔で来ていた。
「もう、目覚めたらめっちゃ怒ってやるからね。
勝手に寝たまま1ヶ月も過ごしてんじゃないわよ」
みんなが、彼の“意識が戻る”ことを信じていた。
いや、信じようとしていた。
時間が経つにつれ、病室の空気は変わっていった。
「このまま生きてても……苦しいだけなんじゃないか」
「でも、目が覚めたら……」
治療を続けるべきか、やめるべきか。
その板挟みの中で、誰もが少しずつ疲弊していった。
ある夜、母親がぽつりと父に言った。
「ねえ……あの子、もし喋れたら、なんて言うのかな……?」
父はしばらく黙ったあと、こう返した。
「“そろそろ、休ませて”って、言うかもな」
その言葉が、家族の心に、そっと届いた気がした。
やがて、医師から「延命措置を外すかどうか」の選択が提示された。
家族は何度も話し合い、恋人とも相談し、
「彼のために、苦しませない選択をしたい」と結論を出した。
最後の日、みんなで彼を囲み、手を握り、話しかけた。
「大好きだったよ」
「自慢の息子だったよ」
「ありがとう。ずっと忘れないよ」
そして、彼は、静かに、音もなく逝った。
ぼくは、その魂を迎えながら、
“死を選ぶことの責任”が、どれほど重く、苦しいものかを知った。
本人が語れない死。
それでも、彼の周囲の人々が、彼の生き方を信じて、
「その人らしい最期」に向けて歩いていく姿は――
とても、尊かった。
「彼自身の物語じゃなくても、これは、彼の“人生の最後の章”だった」
ぼくは、そう思った。
そして静かに、彼の魂を抱いた。
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