観察編
第11話 残された時間の中で
彼女の名前は、石井。
六十代後半、元看護師。
今は、末期の肺がんで大学病院の緩和ケア病棟に入院している。
観察窓から見える病室は、毎日ほとんど同じ景色だった。
白いカーテン、ベッド脇の酸素チューブ、枕元の写真立て。
天井を見上げる彼女の顔は、穏やかで、少しだけ寂しそうだった。
ぼくは今回、何も告げない。
ただ静かに見るだけだ。
それが、ぼくの新しい仕事のはじまりだった。
ある朝、彼女は付き添いの医師にこう言った。
「あとどれくらい?」
医師は一瞬言葉を詰まらせてから、
率直に「あと1〜2ヶ月程度でしょう」と答えた。
彼女はうなずいた。
「わかったわ。ありがとう。
じゃあ、そろそろ“片付け”始めないとね」
そこからの彼女は、まるで誰かと時間の約束をしているかのように、淡々と準備を進めていった。
娘に頼んで自宅の荷物を整理。
「これはいらない」「これはあの子に」と指示を出す。
ベッドの上で昔のアルバムを見ながら、
看護師仲間や旧友に一人ずつ電話をかけて、お礼と別れを告げた。
夜には、自分で化粧ポーチを出し、口紅を丁寧に引いた。
「どうせ死ぬなら、ちゃんと“私らしく”でいたいのよ」
彼女には、やり残したことがあった。
亡くなった夫に、一言だけ“ごめんなさい”が言いたいと。
昔、夫に向かって「あなたの言葉は、いつも正論だけでうんざり」と吐き捨ててしまったこと。
それを、ずっと後悔していた。
ある夜、彼女は一人で枕に顔を埋め、呟いた。
「本当はね、正論が必要だったの。
私、逃げてたのよ……ごめんね。
今さら遅いけど、届いたらいいな……」
最期の週。
娘が孫を連れて病室に来た。
彼女はゆっくり手を取り、笑った。
「あなたにはたくさん言っておきたいことがあるけど……一番はね、ありがとう。
よく頑張ってきたよ。
そのままで、大丈夫」
孫の頭を撫でながら、彼女の目に少し涙が浮かんでいた。
それは、悲しみではなく、
ようやく「言えた」安堵のようだった。
そしてある朝。
彼女はそのまま眠ったまま、静かに息を引き取った。
まるで、次の朝のために準備していたかのような、整った死。
病室には花の香りと、わずかに残った口紅の色が漂っていた。
ぼくはその魂を回収しながら、
告知しなくても、人は“死を整える”ことができるんだと知った。
誰に言われなくても、自分の死を察して、
自らの時間を丁寧にたたんでいく人間の姿は、
言葉では説明できないほどに、美しかった。
「……見て、よかった」
ぼくはそう思った。
介入しなくても、心が動いた。
それは、確かな“学び”だった。
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