第9話 勝てるはずだった

名を松岡。五十三歳。

がん専門医として、何百人という患者を看取ってきた男だった。


冷静で、論理的で、必要以上に感情を交えない人。

患者の希望を丁寧に聞きつつも、あくまで“事実”を重視する姿勢が信頼を集めていた。


彼の死期は、一年後。

診断は「膵臓がん」。発見が遅れ、治療の余地はわずか。


自分自身が、余命を宣告される立場になる。

ぼくは彼に告げるか、ためらった。

でも――医師である彼ならば、事実と向き合えると思った。


夢の中で、彼はぼくの姿を見るなり言った。


「……なるほど。君が“それ”か」


「はい。あなたの命は、あと一年です」


彼はまっすぐぼくを見た。


「そうか。じゃあ、勝負だな」


次の日から、彼はすべてを変えた。


病院を辞め、自身の診断結果を秘密裏に集め、治療プランを組み立てる。

国内外の最新医療研究に目を通し、最先端の治験に応募。

高額なサプリメント、特殊な食事療法、自己免疫療法――


“医療のすべて”を、自分の体で試しはじめた。


「俺は負けない。

がんに打ち勝って、死神に勝つ。

誰よりも“死”を見てきたこの俺が、そう簡単にやられるわけがない」


彼の目には、炎のような強さがあった。

だが、ぼくには、それが“恐怖”の裏返しに見えた。


半年が過ぎる頃、彼はやせ細り、頬がこけ、

それでもまだ「次の療法」を探していた。


彼を見舞ったかつての同僚は言った。


「もう、いいじゃないですか。先生、十分すぎるくらい頑張ってますよ」


だが彼は、吐き捨てるように言った。


「諦めたら、それが“死神の勝ち”なんだ」


夜、ベッドでひとり、彼は何度もぼくの名を呼ぶように呟いていた。


「来るなよ……まだ来るな……俺は、勝てる……」


治療の末期、彼は完全に話すことも食べることもできなくなった。


それでも、目は最後までぼくを睨んでいた。


「勝てなかったな……でも……降参なんて、しない」


それが、彼の最後の意思だった。


ぼくは、彼の魂を抱いて天へ戻る途中、深く息を吐いた。


「なぜ、戦うことしかできなかったのか」

「どうして、最後まで“死”に向き合えなかったのか」

「ぼくは、告げるべきだったのか?」


何度も問いが浮かんで、消えていった。


彼は立派な医者だった。

誰よりも多くの人の“最期”を見ていた。

だからこそ、誰よりも“死神に敗れる”ことを恐れたのかもしれない。


ぼくの中の「告知への自信」が、また一つ静かに剥がれ落ちていった。


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