第7話 消えゆく声

彼女は、物静かな人だった。


名前は小野。五十歳。

独身、非正規の事務職員。

日々の生活を丁寧に過ごしているように見えたが、

それは他人と距離を置くための「防御」でもあった。


人間関係は職場のみ。

会話も必要最低限。

休憩中はいつも文庫本を読んでいるか、スマホでニュースを見ている。


外から見ると、落ち着いた「ひとりの時間を大切にする女性」。

けれど観察を続けるうちに、彼女がずっと“何かを抱えて”生きていることがわかってきた。


ぼくは告げるべきか、迷った。


でも、彼女のような人こそ、残された時間の価値を知れば、

変われるかもしれない――そんな希望を込めて、伝えることにした。


夢の中で、ぼくの言葉を聞いたとき、

彼女はただ静かに、目を伏せた。


「……そうですか。あと一年ですか」


「あなたの時間は、まだ残っています。

あなた自身が、どう生きるかを選べます」


彼女は、微笑みに似た表情を浮かべてこう言った。


「選ぶ力が……あればよかったですね」


ぼくは、そのとき初めて、不安を覚えた。


翌日から、彼女の生活は変わった。


仕事を辞めた。

職場には一枚の紙を置いただけで、連絡は一切なかったという。

携帯の契約も解約され、SNSのアカウントもすべて消えた。


自室にこもる彼女は、ネット通販で最低限の食料と日用品だけを購入し、

外出は一切しなくなった。


彼女が声を発する機会は、もうなくなっていた。


何をしているかもわからない時間が、何日も続いた。


ある日、彼女はベッドの上でノートを開いた。


そこには、走り書きのように、短い言葉が並んでいた。


《生きていても、誰にも影響を与えない人間だった》


《だからこそ、誰にも迷惑をかけずに、消えていきたい》


《せめて、静かに》


ぼくは観察窓の前で、どうしていいかわからなかった。

何も壊れていない。

何も傷つけていない。

でも、何も“残そう”ともしていない。


彼女は、淡々と、生を終えようとしていた。


死の前夜、彼女は最後のページにこう書いた。


《あの夢の中の声は、たぶん本物だったんでしょうね。

それでも、私は何も変えられませんでした。

ごめんなさい。でも、ありがとう》


彼女はそのまま、眠るように息を引き取った。


誰にも見送られず、葬儀もない。

後処理は、行政の代行で行われた。


彼女の部屋には、ひとつだけ飾られた小さな観葉植物があり、

それだけが、静かに陽の光を浴びていた。


ぼくは、その魂を回収しながら、

自分の胸に重くのしかかる問いに、答えを出せなかった。


「告げなかったほうが……彼女は、今より幸せだったのか?」


誰にも迷惑をかけず、静かに去っていくこと。

それを“尊厳”と呼ぶべきなのか、

それとも“孤独”と呼ぶべきなのか――


答えの出ないまま、ぼくはその魂を抱えて、静かに死神界へ戻った。

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